在日 ~ 朝鮮戦争と密入国

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昭和26年03月27日 衆議院 行政監察特別委員会
[104]
自由党(自由民主党) 内藤隆
2、2点お伺いしたいと思います。

第1に、かように密入国者が多いということについて、終戦後の生活苦、社会不安におののいておる日本に、ことさらに密入国者が多くなつたという理由は、一体どこにあるのか、そういう御研究をなされたかどうかを承りたい。

[105]
証人(出入国管理庁第一部長) 田中三男
密入国者の数は、必ずしもふえておるということは、これはごく最近の統計でありますが、はつきりはわからないのでありますけれども、3、4年前がやはり一番多かつたのでありまして、3、4年前は年間1万6、7000名を送還しております。これがむしろだんだん減つて来ておるような傾向になつておるわけであります。最近は、先ほど申し上げましたように、月約200名内外入つて来ております。もちろんこれは月によつて違いがあるのでありまして、ある月には300名を越えることもあるし、ある月には120、30名という月もあるのでありますが、そういうわけで必ずしもふえておるとも言えないように思うのであります。

それからもう一つ、これは非常に奇異なのでありますが、朝鮮動乱が起きてから、むしろふえたければならないようにわれわれ常識上考えますが、この数字も必ずしもふえておらないのです。これは朝鮮海峡の警戒が非常に厳重になつておるとか、あるいは韓国方面で徴兵その他の関係で特に出国を厳重に取締つておるとか、いろいろな原因があるであろうと思いますが、朝鮮の戦争のために常識上考えればふえなければならぬようなものでありますが、必ずしも実際の数字はふえておらないように思われるのであります。

[106]
自由党(自由民主党) 内藤隆
数の増減の問題でなく、密入国者が敗戦日本というか、ともかくも物資の足らない、しかも社会不安の多いこの日本に向つて、さような数字の密入国者があるという、その原因がどこにあるかです。またその密入国の目的が一体どこにあるのか、それをお聞きしたいのであります。

[107]
証人(出入国管理庁第一部長) 田中三男
密入国者は、もちろん韓国人には限らないわけであります。欧米人等もあるわけなのであります。しかしこれは数においてきわめて少いわけでありまして、われわれが強制送還いたしております大部分の者は韓人であります。これはやはり日本に非常に縁故があるとか、あるいは日本に従来住んだことがあるとか、そういうふうに土地になじみが多いこと、あるいは朝鮮海峡との間が地理的に非常に近いこと、さらにわれわれの想像いたしますのに、日本も非常に生活苦でありますが、韓国の実情は日本以上に、特に戦争後は日本以上の生活苦のために、日本をあこがれて来る者が多いのではないか、こういうふうに考えられるのであります。

[108]
自由党(自由民主党) 内藤隆
要するにどさくさまぎれに日本に入り込んで、そうして日本の社会あるいは経済界を混乱に陥れた一種のやみ屋というようなものが多いんじやないかと思いますが、その点いかがですか。

[109]
証人(出入国管理庁第一部長) 田中三男
密入国者の大部分は、今お尋ねのような種類の者であります。

ただ朝鮮戦争後、戦争避難民というふうな、政治的亡命者までは行かないのでありますが、そういうのに似た種類の、要するに戦争を避けてのがれて来たというふうな人が出て来たわけでありますが、こういう人は収容所内でも非常にりつぱな態度であり、われわれの待遇に対しても常に感謝をされておる。その他の大部分を占めまする送還者は、今お尋ねのような種類の者であるという実情であります。

[110]
自由党(自由民主党) 内藤隆
朝鮮動乱以後の密入国者は、戦火をのがれて来た悲惨な人もおるということは想像し得るのですが、その中に思想的に、あるいはもつと端的に申しますと、共産党の指令等に基いて日本に入り込んで、一種の暴力革命の要素となつておるような者がいないでしようか。

[111]
証人(出入国管理庁第一部長) 田中三男
現在出入国管理庁で取扱いました強制送還者の中に、具体的に今お尋ねのような種類の者ははつきりはつかまつておりません。

[112]
自由党(自由民主党) 内藤隆
そうすと、その密入国者をお調べになるときに、思想的な何かそういつたことの調査はされないのですか。

[113]
証人(出入国管理庁第一部長) 田中三男
現在の私どもが基準にして働いておりまする登録令によりますると、連合国総司令官の許可なくして日本に入国し、かつ滞在した者に対してこれを退去強制するということになつておりまして、目的であるとか動機というものは、実は現在の出入国管理庁においては取調べの範囲外になつておるわけなのであります。ただ形式的というと悪いのでありまするが、大体形式的に正式の許可なしに入つて来、また正式の許可なくして日本に滞在している者を国外に強制送還する。これが趣旨になつておりまして、目的であるとか動機であるとかいうことは問題にはなつておらないのでありまして、そういう意味において取調べもいたしておらないのであります。





昭和37年08月24日 衆議院 法務委員会
[085]
日本社会党(社会民主党) 猪俣浩三
質問の要旨をよく御理解いただくために多少の前文句を申しますが、御存じのように李承晩政権というものがありまして、これが相当長く続いた。ところが、李承晩のやり方に対して相当反対の人たちが韓国にふえて参りまして、1958年に大統領の選挙がありましたときに、この李承晩に対立いたしまして、チョ・ボンアムという人が候補に立ちまして、この人は非常に人気のある人で、公平に選挙をやったならば、この人が大統領に当選する可能性があったわけであります。

この人が進歩党なるものを組織いたしまして、韓国に一大進歩的政権樹立のために運動したわけであります。そうすると、この人は李承晩政権によって逮捕せられ、1959年、大統領の選挙があった翌年には遂に死刑に処せられてしまった。当時この進歩党の結成などに奔走しておった進歩的な分子、おもに学生なんかが多いのですが、日本に相当脱出して参りました。

なお、続いて1960年の大統領選挙には、御存じのように李承晩が驚くべき不正選挙をやりまして、これが遂に彼が崩壊しなければならない運命を作ったものでありますが、この際にも相当の脱出者があったわけであります。

なおまた遠くさかのぼるなれば、朝鮮戦争のときに、やはりいろいろの事情から日本に脱出してきた学生なんかが相当あるわけであります。ある人間などは、日本に留学するについては向こうで試験がある、その日本に来る試験には合格したにかかわらず、アメリカのGHQの許可がなければ日本に来れない。朝鮮戦争で許可などという手続をやっている余裕がない、そこで好学のあまり日本に脱出してきた。

日本では、その事情を認めて滞留許可をして勉学をされておったのでありますが、御存じのように昨年は朴政権なるものができた。これはクーデターによって樹立されたファッショ政権であることは天下公知の事実であります。そこで、これらのいろいろの政変下において日本に脱出してきた人たち、ことに学生等で、この朴政権下に帰りますと、人身の自由その他生命の危険さえ脅かされる者が相当出てきたのでありまして、現にずっと李承晩政権あるいは張勉内閣当時から国家の補助によって日本に留学していた学生が、朴政権に反対運動をやったということで相当人数奨学金の停止処分を受けている。その中にはすでに強制退去の命令を受けている者もあるわけであります。こういう人間ども、ことに大多数は学生でありますが、学生はどこの国でも非常に進歩的な分子が多いわけでありまして、朴政権に反対し、そして南北統一をはかり、民族の独立をはかるということで、日本に来ております学生はその中心勢力になって運動をやっておるわけであります。





昭和59年04月19日 衆議院 決算委員会
[141]
政府委員(法務省入国管理局長) 田中常雄
外国人登録法の目的は、在留外国人の身分関係、居住関係を明らかにし、そして公正な管理を行うということになっておりますが、この身分関係、居住関係を明らかにするためには、外国人の同一人性を確認する必要があるわけでございます。その同一人性を確認するためには、指紋が持っている万人不同という特性を使う必要があったからこれをやっているわけでございます。

また、指紋制度を採用しているのは、世界において我が国だけではございませんでして、世界に約33カ国ございます。そして、そのいずれの国においても指紋が人権違反であるという声は起きていないと聞いております。

[142]
公明党 近江巳記夫
この押捺制度というのを実施し出したのは、朝鮮戦争の後、韓国等からの密入国者がふえてきた、しかも、写真を張りかえるなど登録証明書を偽造する、不正使用する、そういうケースが頻発したのが理由であるということを聞いておるわけです。

しかし、密入国者も現在非常に減少しておるわけで、また同一人性確認の方法がいろいろ開発されていると思うのです。例えば現在の自動車の運転免許証にしても、写真を、何というのですか型で押さえてはがれないようにしておるとか、写真の方も非常によくなっておりますし、時代の進展とともにいろいろなことが開発をされてきておるわけですね。いつまでもそういう制度に、これだけ人権問題にも絡んでおる制度でございますし、それに固執するということはどうかと私は思うのですね。ですから、かたくなにそういう指紋押捺の義務を課し続ける必要があるかどうか、非常に大きな疑問を感じるわけなんですよ。ですから、そういう点で、その同一人性の確認ということであるならもっと科学的にいい方法がないかということを考えてないのですか、これだけ問題になっておるのに。それはいかがですか、大臣。





昭和61年04月08日 衆議院 法務委員会
[183]
民社党 横手文雄
ただ、繰り返して申し上げるようでございますけれども、過去における日本政府の植民地支配の責任を償い、これまでに与えたさまざまな不利益を救済するために、少なくとも協定永住人については外国人登録証の常時携帯義務、指紋押捺義務等は免除するというような特別立法の措置が必要ではありませんか、こう申し上げているのでございますが、いかがでございますか。

[184]
政府委員(法務省入国管理局長) 小林俊二
先生御指摘の点を検討いたしますには、これらの制度の由来あるいは実態について考慮を払う必要があろうかと存じます。

御承知のように、指紋押捺制度というものは昭和22年に外国人登録制度が導入されました際、あるいは設立されました際には存在しなかったのでございます。この制度が導入されましたのはそれから5年後の昭和27年でございました。実際に実施に移されたのはさらに3年後の昭和30年でございますけれども、なぜこの制度が導入されたかと申しますと、それは昭和22年から昭和27年に至る5年間における外国人登録制度の混乱に起因するものでございます。

すなわちその混乱は、朝鮮戦争といった事態もございまして、一たん朝鮮半島に帰国した人々が大挙して密入国してきたということによって生じたわけでございます。これらの人々によって不正登録あるいは二重登録、三重登録といった登録が実施されまして、そして入手した登録証明書を密入国者が携帯して正規在留者を装ったということによって我が国の外国人登録制度が非常な混乱に陥ったという事実があるのでございます。こうした事実を是正する必要上、27年に外国人登録法が制定されます際に指紋制度が導入されたという経緯がございます。

もちろん情勢はその後鎮静化、安定化してきております。しかしながら、現在なお毎年約500名に上る密入国者が摘発されて処理されておるのでございます。これらの密入国者はいずれも朝鮮半島出身者でございます。したがって、密入国を問題とする際に問題としなくてはならないのは、あくまでも朝鮮半島からの密入国ということに限られるのでございます。もちろん不法残留、これは東南アジアからの入国者によるケースが多うございますけれども、その点も考えなくてはなりません。

しかしながら最も問題となりますのは、できれば正規在留を装うであろう人々、すなわち密入国者の問題でございます。とすれば、これらの人々が引き続き朝鮮半島から日本にやってきておる、今なお潜在している密入国者が大阪地方を中心にして数万に上るという状況の中で、彼らが装うであろう正規在留者は当然のことながら朝鮮半島出身者であります。したがって、朝鮮半島出身者であって、現在我が国に正規に在留している人々が正規在留者であることを証明する手段を設けることは、こうした観点からやむを得ないところであろうかと思います。言いかえれば、朝鮮半島出身者である永住者を、現在問題になっておりますような外国人登録制度の諸要件、端的に言えば、指紋制度の対象から外すとするならば、指紋制度が本来持って生まれたところの目的を達することができなくなるということがこの問題の解決を難しくしているということなのでございます。





平成04年05月12日 参議院 法務委員会
[070]
参考人(弁護士) 新美隆
このときの指紋を導入せざるを得なかった理由というのは、朝鮮半島からの密入国者の取り締まりということに尽きたわけであります。

1952年4月の「警察時報」という雑誌に国警本部警備課の担当者が次のように書いております。在日朝鮮人というのは100万を既に51年段階で超えていたはずだ。しかし、51年10月末の登録人数というのは56万人しかいない。すると、約40万人近くが不正規在留者として我が国に存在をしていることになる。この人たちをどうするかと。

こういう発想がこの51年段階での警察及びこの特別委員会の発想でもありました。

一たん日本社会に潜り込んでしまったこの不正規在留者、不正規居住者をどのようにしてあぶり出していくのか、当時は朝鮮戦争下でもありましたから、これは同時に防諜の目的も持っておったわけであります。ここで指紋が導入されたわけであります。

当時は、一人の密入国者でもこれを見逃せば国家の利益に対して取り返しのつかない不利益があり得るというこの発想に縛られておりました。そのために、外国人登録証明書に従来写真だけ張ってあったのを指紋をも加える、そして法務省入国管理局ですべての外国人から押された指紋の原紙を切りかえ年度ごとに照合して鑑識をする、それで一たん潜り込んでしまった不正規在留者をあぶり出し、選別していくというのがこの52年以降の指紋制度の実質でありました。

ところが、55年以降の指紋制度の体制というものは、1958年に日中貿易を促進するために1年未満の在留者の指紋免除を政治的にせざるを得なかったことによって大きな一角が崩れただけではなくて、実際にもそのような人員と費用をかけての効果というのはあらわれませんでした。そして、ついに1970年には指紋照合の体制というものを法務省当局は中止しましたし、74年には法務省にとって最も重要な指紋原紙の省略通達まで出しております。このころには既に、人権とかそういうものを仮に外したとしても、指紋制度の効用というのは終わっておったわけであります。この時点で法務省当局は事態を明らかにして指紋を廃止すべきであった、歴史的に考えるとそういうことが言えるのではないかと思うわけであります。

現在、過去のアジアに対する日本の侵略とか植民地支配の見直しの問題、克復の問題、補償の問題というのがいろいろ問われております。

1952年、占領から脱すると同時に我が国が自前で外国人登録法を立法したときに、日本の制度の中では初めて行政制度としての指紋制度を導入してしまったというのは、ある意味では不幸な、誤った出発であったというふうに考えざるを得ません。

指紋制度は、現在の自衛隊と同じように朝鮮戦争の落とし子であります