昭和26年05月16日 衆議院 行政監察特別委員会
[248]
委員長 篠田弘作
証人の尋問を続行いたします江川文弥さんですね。
[249]
証人(油谷炭鉱工員) 江川文彌
そうです。
[250]
委員長 篠田弘作
ただいまから不正入出国に関する件について証言を求むることになりますが、証言を求める前に証人に一言申し上げます。昭和22年法律第225号議院における証人の宣誓及び証言等に関する法律によりまして、証人に証言を求める場合には、その前に宣誓をさせなければならぬことと相なっております。
宣誓または証言を拒むことのできるのは、証言が証人または証人の配偶者、四親等内の血族もしくは三親等内の姻族または証人とこれらの親族関係のあった者及び証人の後見人または証人の後見を受ける者の刑事上の訴追または処罰を招くおそれのある事項に関するとき、またはこれらの者の恥辱に帰すべき事項に関するとき、及び医師、歯科医師、薬剤師、薬種商、産婆、弁護士、弁理士、弁護人、公証人、宗教または祷祀の職にある者またはこれらの職にあった者がその職務上知った事実であって、黙秘すべきものについて尋問を受けたときに限られておりまして、それ以外には証言を拒むことはできないことになっております。しかして証人が正当の理由がなくて宜誓または証言を拒んだときは、1年以下の禁錮または1万円以下の罰金に処せられ、かつ宣誓した証人が虚偽の陳述をしたときは、3月以上10年以下の懲役に処せられることとなっておるのであります。一応このことを御承知になっておいていただきたいと思います。
では法律の定めるところによりまして証人に宣誓を求めます。御起立を願います。
宣誓書の朗読を願います。
〔証人江川文弥君朗読〕
宣誓書
良心に従って、直実を述べ、何事もかくさず、又何事もつけ加えないことを誓います。
[251]
委員長 篠田弘作
では宣誓書に署名捺印を願います。
〔証人宣誓書に署名捺印〕
[252]
委員長 篠田弘作
これより証言を求めることになりますが、証言は、証言を求められた範囲を越えないこと、また御発言の際には、議事の整理上その都度委員長の許可を得てなされるようお願いいたします。なお、こちらから質問をしておりますときはおかけになっていてよろしゅうございますが、お答えの際には御起立を願います。
証人の略歴を述べてください。
[253]
証人(油谷炭鉱工員) 江川文彌
メモを持っておりますが、よろしゅうございますか。
[254]
委員長 篠田弘作
ええ。
[255]
証人(油谷炭鉱工員) 江川文彌
大正13年北海道後志国寿都町に生れまして、その後寿都尋常高等小学校を卒業し、昭和16年10月横浜海員養成所へ入りまして、12月船員としまして、日本郵船株式会社に入社いたしました。その後郵船会社の南洋航路の近江丸、その他船舶11ぱいくらいをかわりまして、昭和22年4月ごろ日本郵船株式会社を退社いたしました。その後昭和22年6月ごろ西日本石炭輸送株式会社へ入社いたしまして、昭和23年2月ごろ西日本石炭輸送株式会社を退社いたしました。昭和23年2月日本共産党若松地区委員会に常任として上りまして、その後若松地区、若松港区または北九州五市地区委員会、北九州五市海上区の責任者となりまして活動しておりました。昭和23年8月北海道へ船による海上区オルグとして中央から派遣され、その後北海道におきまして党活動に従事し、昭和25年6月日本共産党を脱党いたしまして、その後現在に至るまで芦別にて炭鉱夫をいたしております。
[256]
委員長 篠田弘作
あなたは、この北海道新聞に、見出しは北海道新聞がつけたと思いますが、私が見た日共の実態という記事が出ておりますね。
[257]
証人(油谷炭鉱工員) 江川文彌
ええ。
[258]
委員長 篠田弘作
あなたが北海道新聞の記者に直接話したものでありますか。
[259]
証人(油谷炭鉱工員) 江川文彌
私から北海道新聞の記者に直接話しました。
[260]
委員長 篠田弘作
それはあなたの方から発表するということを言って話をしたのですか。
[261]
証人(油谷炭鉱工員) 江川文彌
そうです。
[262]
委員長 篠田弘作
あなたがこれを北海道新聞に積極的に発表した動機あるいは心境というものを簡単に述べてください。
[263]
証人(油谷炭鉱工員) 江川文彌
そのころの……。
[264]
委員長 篠田弘作
そうです。
[265]
証人(油谷炭鉱工員) 江川文彌
一昨年の6月ごろ、私が日本共産党を脱党いたしまして、脱党いたしましてより一昨年の末ころまで……。
[266]
委員長 篠田弘作
あなたはさっき25年6月脱党したと言っておったが、一昨年ですか、一昨年は24年になりますが。
[267]
証人(油谷炭鉱工員) 江川文彌
昨年です。昨年の12月ごろまで、日本共産党の党員または芦別地区の委員長がしょっちゅう私のところへ参りまして、そうして入党勧告をし、入党勧告がいれられなかったときには勧告状をつきつけまして、私に対して脅迫めいたことを言っておる。またそういうことを述べて来る。
それに私は過去私のやって来ましたことに対して大きな批判をもちまして、このままやり過しておいたのであっては、ますます海上の不正が、共産党の不正というものが伸びて行くばかりだ。私は今後共産党と闘うことによって、またこれを大衆に暴露することによって、大衆が共産党のやり方、または民主主義というものをはっきりつかみ、それによって大衆にもう少し大きな目を開かせようということが私の眼目であったのであります。
[268]
委員長 篠田弘作
それであなたは日本共産党九州地方海上区議長永山正昭君といつごろ知り合いましたか、その知り合った時期並びにそのときの事情。
[269]
証人(油谷炭鉱工員) 江川文彌
終戦後私北海道の函館で運営会所属の大正丸といいます連絡船に乗っておりました。その連絡船は国鉄との契約が切れ、そうして船舶運営会に返りまして、その船が今度九州の方へ就航するようになりました。そのときは昭和21年の春だったと思いますが、若松港におきましてその船の機関長の問題を取上げまして、私が主唱者となって闘争を巻き起したのであります。そのときに海員組合にいろいろ連絡に行って海員組合の支持を受けておりました。そのときに永山正昭君は海員組合の若松支部におりました。その後私が洞南丸に乗り移り、洞南丸でずっと船内委員をしておりましたので、ずっと海員組合の方とは連絡がとれておったのであります。そして海員組合に連絡に行くたびに永山正昭と会い、永山正昭のうちをたずねるというふうにして、彼とは非常に深いつながりができて来たのです。
[270]
委員長 篠田弘作
あなたは日本共産党に入党しておったのですね。
[271]
証人(油谷炭鉱工員) 江川文彌
はいそうです。
[272]
委員長 篠田弘作
その入党の時期及び動機というものは、一体どういうものですか。
[273]
証人(油谷炭鉱工員) 江川文彌
私は日本郵船におきまして、そのころ下級船員の火夫としましては、非常に古い方におりましたために、下級船員の方ではある程度の掌握力を持っていたのであります。そのころ海員組合のあの全国闘争が始まり、そのときにその闘争に積極的に参加し、また船内委員としていろいろ船内の掌握力が強かったものですから、永山正昭氏の方でも私に対しては意識的に入党させようとして、いろいろ私に意識的に話かけ、意識的に働きかけておったのであります。私としましては、終戦当時の、何と言いますかスランプ状態、私自身のスランプ状態から何か刺激を求めて行ったと思うのであります。そういうことから、そのころの共産党といえば、何かはでな、そしてやりがいのある、男気のあるというような、単なるそういう気持から共産党に飛び込んで行ったということであります。そうして、昭和21年の12月ごろ洞南丸乗組中、日本共産党に対する入党のただ口頭での承認をいたしました。その後昭和22年6月ごろだと思いますが、海員オルグとして若松に参りまして間もなく署名捺印いたしました。
[274]
委員長 篠田弘作
そうすると、あなたの共産党に入られた動機というものは、あなたの当時の個人的な心境においてスランプであったということ、それからいろいろな船内の委員として闘争に参加しておった、それで共産党自体のやり方がはでであり、またやりがいのある仕事である、とこういうふうに感じて入ったのであり、別に理論的に唯物弁証法であるとか、あるいは唯物史観であるとか、あるいは余剰価値説とか、そういったような共産党の理論から入ったわけじゃないんですね。
[275]
証人(油谷炭鉱工員) 江川文彌
はい。
[276]
委員長 篠田弘作
その後そういう理論について、だれかから教わったり、あるいは研究したりしたことがありましたか。
[277]
証人(油谷炭鉱工員) 江川文彌
それは昭和22年ごろ、永山正昭の家におきまして、若松の西日本石炭輸送株式会社に親睦団体としてあります同志会、その同志会の中に青年部というものがありまして、その青年部の労働学校というものを、永山正昭の家で永山正昭が主催して開いておったのであります。それで私も永山正昭の勧めによりそこに行きまして、そこでいろいろ教育を受けました。
[278]
委員長 篠田弘作
そうすると、その後理論的に入ったわけですね。
[279]
証人(油谷炭鉱工員) 江川文彌
はい。
[280]
委員長 篠田弘作
理論的に自分で大体わかったと思っていますか、それともわからないと思うか、どうなんですか。
[281]
証人(油谷炭鉱工員) 江川文彌
理論的に完全に自分でわかったということより、いろいろなその中におけるまあわからないこと、また矛盾というものを、私自身が私に無理に納得させようとしていたということが言える。
[282]
委員長 篠田弘作
それでは問題をあれしまして、永山正昭氏は九州地方の海上区の議長をやっておるようですが、海上区というのは一体何ですか。
[283]
証人(油谷炭鉱工員) 江川文彌
海上区といいますのは、日本共産党は、組織といたしましては、中央集権制をとりまして、中央委員会、地方委員会、地区委員会、その下に細胞というようにわかれているのであります。
だが、海上は陸上と違いまして、非常に大きな特殊性があります。それは海上では、きょう入った船の乗組員はきょう出て行く、そこで掌握してもそこの党員となることができない。どうしても、海上区の党員に対しての動きは全国的な動きをなさなければいけないのであります。
そういうことから九州地方におきまして、全然中央で海上に対して認識のない、または地方地区で海上に対して全然認識のないそして特殊性というものを全然知らぬ人たちに指導された場合には、非常に大きな行き違いがあるということから、われわれはわれわれのみで新しい組織を持たなければいけないということになりまして、九州で永山正昭が中心となりまして、若松港に若松港区を置き、それから門司、佐世保、長崎、鹿児島というふうに港区を設定いたしまして、そこの上部機関としまして、九州に九州地方委員会と全然別個に九州地方海上区というものを設立しました。そうして、その海上区の議長には永山正昭が就任いたしました。
[284]
委員長 篠田弘作
海上区というのは、そうすると正式な名前ですね。
[285]
証人(油谷炭鉱工員) 江川文彌
そのころ正式な名前です。
[286]
委員長 篠田弘作
これはそのころと言いますが、今かわりましたか。かわっていませんか。
[287]
証人(油谷炭鉱工員) 江川文彌
私脱党するまではかわっておりません。その後はわかりません。
[288]
委員長 篠田弘作
その海上区の組織あるいは編成、連絡方法及び海上区の目的は。今あなたの言われた海上区にいる党員の党活動のためにやっているということはわかったけれども、その組織、編成、連絡方法はどういうふうにしておりますか。
[289]
証人(油谷炭鉱工員) 江川文彌
組織といたしましては、ただいま申し述べたことは九州のことでありまして、そのほかにそれに準じた組織が関西地方それから関東地方それに北海道、私の知っている範囲内では正式なものは4つできておりました。そうしてそれの連絡の方法といたしましては、普通の地区委員会、細胞では、必ずその地方の地方委員会を通して連絡しなければならない、または細胞が直接隣の町の地区委員会に連絡するということは、党ではできないのであります。だが海上は、きょう若松で細胞会議が開かれまして、その決定とか、またはいろいろな連絡というものは、そこの町の陸上の地区委員会、また陸上の地方委員会を全然通さずに、海上区の事務所から海上区の事務所に直接持って行くことができるのであります。
[290]
委員長 篠田弘作
その組織はどういうふうになっておりますか。たとえば議長の下にどういう……。
[291]
証人(油谷炭鉱工員) 江川文彌
議長が1人おりまして――ただいままで議長と呼んでおりますのは、九州だけなのであります。その議長と申します九州の永山正昭は、その議長になる前は、中央委員会派遣の全国オルグとして、九州の海上を担当していたのであります。それが海上区が設立されるとともに議長となり、そのほか北九州にはちょうど陸上の県委員会と同格な北九州地区海上区というものが設立されまして、その責任者としては、門司の江副誠二という方が就任しておりました。その下に各地区オルグがおりまして、その地区オルグが各その中の地区をまわり、地区を指導して歩いておるのであります。その下に一つの港を受持っている港区責任者、俗にいう港区オルグというものがそこにおります。
[292]
委員長 篠田弘作
そうすると、その議長の場合はどうですか、どのくらいな格に当るの、地区責任者くらいの格。
[293]
証人(油谷炭鉱工員) 江川文彌
いいえ、地方委員会議長と同格です。
[294]
委員長 篠田弘作
ああそうですか。あなたは海上区をつくったのですか。どこかで、北海道か何かで。
[295]
証人(油谷炭鉱工員) 江川文彌
北海道でつくりました。
[296]
委員長 篠田弘作
北海道の場合と九州の場合とは、どういうふうに違いますか。
[297]
証人(油谷炭鉱工員) 江川文彌
九州と北海道との違うところは、九州は、議長ははっきりしておりまして、組織が非常に大きなはっきりした組織になっておるのであります。たが北海道は、海上に対して今まで非常に関心がなかったことと、陸上の方で海上を全然手をかけていなかったこと、それに北海道へ海員オルグとして私がただ一人行きまして、そうして北海道におりました期間が非常に少かったことから、組織の大きさにおいても、おのずからかわって来るのであります。
北海道におきましては、まず私が小樽、函館、釧路、室蘭、この4つを目標にきめまして、この4つに必ず各海上区を設立しなければいけないということになりまして、函館におきましては、まず函館にあります北部機帆船を大量に掌握することによって強力な海上区を運営できるということから、函館へ私が行きましたころ、アカハタの責任者であったか、配布者をしておりました才門勘志露というのがおります。その才門勘志露が前に機帆船に乗り組んでいた。また青函連絡船の曳ボートに乗っていた、また海員免状を持っていることから、海上の経験が非常に多いことによりまして、私が彼を推薦し、そうして函館区委員会で会議を開かせまして、そこでその地区委員会の決定としまして、彼を函館の港区責任者として確認いたしました。そうしてその確認は私から地方委員会、中央委員会に報告をしまして、地方委員会、中央委員会の承認を得ております。また小樽におきましては、昭和22年8月ごろ小樽の港で闘争を起しました日本郵船の延慶丸という船の二等機関士でありました秀山一止が下船いたしまして、私の推薦で小樽の港区責任者をしておりました。そうして私がおもに月の半分ぐらいは釧路、室蘭をまわり、あとの半分ぐらいは函館、小樽をまわっておりました。
[298]
委員長 篠田弘作
そうするとあなたは北海道の海上区の責任者というわけですか。
[299]
証人(油谷炭鉱工員) 江川文彌
はい、そうです。
[300]
委員長 篠田弘作
それで小樽、函館、釧路、室蘭と、この4港の組織されたる海上区の党員はどのくらいあるのですか。
[301]
証人(油谷炭鉱工員) 江川文彌
ここに海上区の特殊性、または全国的な組織でなければ掌握のできないところがあるのであります。それは私が小樽で入党させ、または北海道の海員オルグが北海道で獲得した党員を北海道の籍に入れて、そこで掌握することはむずかしいのであります。その船が間もなく航路変更となりまして九州へ行き、永久的に九州から北海道へ帰って来ないという場合もあるのであります。それで北海道で掌握した党員といいますものは、おそらく基地が確定しております機帆船以外につかめないのであります。それで函館におきましては、私が8月ごろ行きまして11月ごろまでの間に、海上の機帆船の党員を10名ぐらいだったと思いますが、獲得しております。
[302]
委員長 篠田弘作
それであなたは月のうち半分をこちらにおるとか、あとの半分を向うにおるとかやっているのだが、そういう場合、あなたの生活は党から保障されておったのですか。
[303]
証人(油谷炭鉱工員) 江川文彌
はい、そうです。
[304]
委員長 篠田弘作
どのくらいもらっておったのですか。
[305]
証人(油谷炭鉱工員) 江川文彌
北海道へ参りまして、北海道の地方委員会から支給された金額は……。
[306]
委員長 篠田弘作
月でよいです。大体毎月どのくらい。
[307]
証人(油谷炭鉱工員) 江川文彌
月2500円程度のものであります。
[308]
委員長 篠田弘作
それであなたは妻子はないですか。
[309]
証人(油谷炭鉱工員) 江川文彌
ありません。
[310]
委員長 篠田弘作
2500円で生活をしておったのですか。
[311]
証人(油谷炭鉱工員) 江川文彌
それは各港とかまたは各地区にオルグとして行きました場合には、宿泊または食事は党員の宅でとっておりました。
[312]
委員長 篠田弘作
タバコはのむんですか。
[313]
証人(油谷炭鉱工員) 江川文彌
のみます。
[314]
委員長 篠田弘作
タバコ代ぐらいだね、それじゃ。
[315]
証人(油谷炭鉱工員) 江川文彌
そうです。
[316]
委員長 篠田弘作
汽車賃なんかはどうして……。
[317]
証人(油谷炭鉱工員) 江川文彌
汽車賃は全部党の方から支払われました。
[318]
委員長 篠田弘作
別にね。
[319]
証人(油谷炭鉱工員) 江川文彌
そうです。
[320]
委員長 篠田弘作
それであなたは密航者をしばしば朝鮮に往復させたというような事実があるんですね。
[321]
証人(油谷炭鉱工員) 江川文彌
はあ、あります。
[322]
委員長 篠田弘作
それはどういうふうにして往復させたのですか。
[323]
日本共産党 梨木作次郎
委員長、証人はメモを見て証言するのではなく、記憶のままを述べるように言ってください。
[324]
委員長 篠田弘作
記憶で確かでない点がありますから、そういう点はメモを見ていいです。かまいません。
[325]
日本共産党 梨木作次郎
そんなのは証言にならぬよ。
[326]
委員長 篠田弘作
それはあとで君が質問したらいいだろう。
いついつか、たれを送ったとか、そういう詳しいことはあなたも記憶にないだろうし、メモにも書き切れないけれども、大体何回くらい、どういうような人をどうして送ったかということだけひとつ……。
[327]
証人(油谷炭鉱工員) 江川文彌
お答えいたします。私自身は手をかけて送ったというのはないのであります。それは未遂に終ったことは一度あります。
そのほかは21年のころだと思いますが、九州の若松の朝連に朴という常任がおりまして、その朴から海上区の方に話がありまして、海上区の永山正昭の方から、朴といろいろ相談してくれ、彼が何か話をしたいことがあるらしいというので会いました。そのときの朴の話では、現在朝鮮から、非常に弾圧されて、日本へ向うのわれわれの同志が入って来ている。それでその同志を再び教育して朝鮮に帰してやらなければいけないということから、現在九州の博多で――現在というのは、ただいまの現在ではなくて、そのころ話をしたときのことですが、現在九州の博多でそういうような党員を常時30名くらいずつ教育をしている。その教育された党員を再び送ってやったり、また向うから連れて来なければならないから、それに対していろいろ協力してくれ、そして船とか、船員を世話してくれろと言われまして、私は朴に対してそのときどきに、今こういう船が入っておる、またこういう船が入っておる、この船の乗組みにはこういう人間が乗り組んでおる、だから、話をしてはどうか、頼んでみたらどうだということで、船員または船の紹介をいたしておりました。
それに昭和22年の4月ごろだと思います。春早くだったということは確実なんでありますが、朝鮮の釜山港に私が洞南丸乗船中に行きました。そうしたら、そのときに朝鮮の方でも連絡員がはっきりきまっておるのであります。向うは自分では党員だということは言っております。その者から連絡がありまして、そして実は日本へこの人間を送り込まなければいけないのだ。この人間を送り込んでくれないかということで相談を持ちかけられまして、私が承認しました。そうして船へ積み込みまして、出航する寸前、その洞南丸の操機長の小林新衛という方に発見されまして、その積み込んだ人間は下船させられました。それで私はその船で若松に帰りまして、すぐ下船命令が出まして、神戸へ参りました。そうして神戸でそのとき水上署に連行されまして、2時間くらい水上署で尋問を受けました。それでそのときに日本郵船も一緒に退職したのであります。
[328]
委員長 篠田弘作
それからあなたは椎野悦朗氏から密貿易を指令されたというが、それはいつごろで、どういうような密貿易をどういうふうにしてやれと言ったか、そのときの事情を説明してください。
[329]
証人(油谷炭鉱工員) 江川文彌
昭和21年の春と思います。月は何月か今のところは記憶はいたしておりませんが、そのときに私が若松地区委員会に行きましたら、永山正昭氏が、実は椎野氏が君と会いたいと言っておる。それであす昼ごろまでにここへ来て椎野悦朗に会ってくれないかという話が出たのであります。それで私もそれを承認いたしまして、次の日の夕方、夕方と申しましてもまだ明るいうちでございます。地区委員会で私と椎野悦朗氏、それから永山正昭氏に、それからもう1人は名前は今記憶がよみがえられないでわからぬのでありますが、折尾という駅の購買部のそのころ責任者だったと思いますが、その人と4人で会いまして、椎野悦朗から、現在の党の財政は、君も知っておる通り非常に苦しんでおるのだから、君もひとつ力になってくれということなんです。その力になるということに対して、具体的なことは、と私の方から質問しましたら、今日本から船員がどんどん向うの方へ品物を持って行ったり、向うから持って来たりして売っておるということを聞いておる。それに相当利益があるらしい。だから、君の方でそれをやってくれないかということになったのであります。
それで私どもとしましては、それをやることにいたしましても、いろいろこまかいところまで、方法とかそういうことを聞かなければ危険でできないということを話しましたら、向うの椎野の方の条件としましては、なるべく党員を使わずに、非党員を使うように、そうしてもし1つの船、または1人の船員が、そのことによって逮捕された場合には、全然党の方に影響がないようにつながりをつけておくな、それから朝鮮に持って行く品物は、折尾の売店の責任者がそのころ九州において集めるからということなんです。それで連絡さえあればいつでも持って行って自分が船員に渡す、また向うから来た品物は連絡さえあればいつでも若松の方へ持って来て、そこで取引をするということなのであります。
[330]
委員長 篠田弘作
どういうものを持って行って、どういうものを持って来ましたか。いろいろなものを持って来たのだろう。
[331]
証人(油谷炭鉱工員) 江川文彌
大体そのころ日本から持ち出していたものは電気器具、それから金、錫、タングステン、それに部分品、化粧品、それから文房具類がおもでありました。
[332]
委員長 篠田弘作
品物は全部向うで手に入れてあなたの方へ持って来るだけあなたの方というか、船へ持たしてやるわけですね。
[333]
証人(油谷炭鉱工員) 江川文彌
そうです。
[334]
委員長 篠田弘作
それから持って来たのは……。
[335]
証人(油谷炭鉱工員) 江川文彌
向うから持って来たのは、そのころは主としまして進駐軍から朝鮮へ放出になりましたサッカリンまたはのり、またはめんたいの子、それからフェナセチンといわれます薬局の類、そしてそのほかに1~2度非常に高価なものを受取ったということを聞いております。その高価なものは何かといえば麻薬だといいましたから、私の感じとしましてモルヒネかコカインじゃないかと判断したわけであります。
[336]
委員長 篠田弘作
それでピストルとかそういうものを持って来たようなことはないのですか。
[337]
証人(油谷炭鉱工員) 江川文彌
そういうようなことは確認しておりません。
[338]
委員長 篠田弘作
何年間に一体どのくらいの額に上る密貿易をやったかということはわかりませんか。
[339]
証人(油谷炭鉱工員) 江川文彌
その金銭の授受とかまたは品物の授受というのは、私がただその人たちを紹介したり船を紹介するということでありまして、私が直接携わっていないために金銭の方はわからないのであります。
[340]
委員長 篠田弘作
樺太から秘密文書がいろいろ輸送されたというようなことがあるらしいけれども、特に戸畑丸、あがた丸の場合について詳しく話してください。
[341]
証人(油谷炭鉱工員) 江川文彌
昭和22年の秋ころに北海道の小樽港を出港しまして、名前は忘れましたが、樺太の港に入港しました日本郵船株式会社の戸畑丸という船があります。その船が樺太から日本に帰港しまして、11月ころだったと思います。非常に寒かったときです。11月ころ私が戸畑丸に行きましたら、戸畑丸の通信士の矢島昇というのが、実は大事なことがあるので、海上区に一緒に行ってくれないかということで、私が海上区に行きまして、永山正昭のところでいろいろお話しましたら、実はこういうような書類を預かって来ているということで、その書類を出しまして――その書類と申しますのは、白い大型の角封筒なのであります。厚めの封筒です。その上の方には、日本共産党中央委員会書記局とはっきり非常にうまい日本字で書いておりました。裏の方には何かマークのようなものが書いてありまして、私にわかるようなものは全然書いてありませんでした。それを九州の永山正昭のところに持って行きましたときに、それを完全に渡したという証明に私が立ち会いまして、矢島昇から永山正昭に手渡しました。
そして次の日間もなく永山正昭が中央委員会に行って渡して来るからと言って若松を出まして、それから4~5日して帰って来たと思います。そしてそのときに永山正昭は、実は中央の田中松次郎が立会いとなって伊藤に渡して来たということを言われておりました。
[342]
委員長 篠田弘作
伊藤というのは伊藤律氏ですね。
[343]
証人(油谷炭鉱工員) 江川文彌
伊藤律です。
[344]
委員長 篠田弘作
それからその内容はもちろんわからぬですね。
[345]
証人(油谷炭鉱工員) 江川文彌
わかりません。
[346]
委員長 篠田弘作
それからあがた丸の場合は……。
[347]
証人(油谷炭鉱工員) 江川文彌
新聞記者に私の記憶によって話したので、船名があがた丸となっておりますけれども、その後私が小樽の海員組合に行きまして、その船はあがた丸であったかということを確認に行きましたら、あがた丸でなくて大安丸でありました。
[348]
委員長 篠田弘作
その場合はどうですか。
[349]
証人(油谷炭鉱工員) 江川文彌
昭和24年の春、4月ごろだったと思います。その船が小樽を出港しましてやはり樺太の港に行きまして、再び小樽の港に帰って参りました。そのときに、その船に乗り組んでおります事務長の有馬敬という党員が、私が船に行きましたら、実はこういうものを頂かっているのだ、これは大事だから、どういうふうにして上部機関に渡したらいいかということを相談されまして、私はそれは大事だから絶対人に見せるな、すぐ今上陸しようじゃないかということで、上陸しまして、すぐその足で札幌に参りました。それで札幌の北海道地方委員会をたずねまして、北海道地方委員会のそのころの議長でありました西館仁にそれを私が立会いで手渡しました。その後どこへ行ったか確認してないのであります。
[350]
委員長 篠田弘作
この大安丸というのは何トンくらいの船ですか。
[351]
証人(油谷炭鉱工員) 江川文彌
トン数は記憶しておりません。
[352]
委員長 篠田弘作
大体……。
[353]
証人(油谷炭鉱工員) 江川文彌
大体2000トン級です。
[354]
委員長 篠田弘作
2000~3000トン級の事務長といえば高級船員ですね。
[355]
証人(油谷炭鉱工員) 江川文彌
高級船員です。
[356]
委員長 篠田弘作
その人が党員であったわけですね。
[357]
証人(油谷炭鉱工員) 江川文彌
そうです。
[358]
委員長 篠田弘作
あなたの今までの説明で大体わかりましたが、あなたは北海道新聞に、党のために結婚を強制されるというようなことを言っておられるが、それはどういうことですか。
[359]
証人(油谷炭鉱工員) 江川文彌
お答えします。それは私が若松に行きましてから――若松の新地4丁目に地区委員会の事務所があります。その事務所は馬越丈太郎という方の2階を借りておるのであります。それで馬越丈太郎から夜おそくまで会議を開くとか騒ぐということで、非常に文句を言われましたのですが、そこの2階が事務所になっておりまして、家主の娘、その娘の養子が共産党員なのであります。共産党としましてこの若松の地区委員会を設立するころに、どこへ行っても事務所を貸してくれない、事務所がないということで、非常に苦しんでおったということであります。それで馬越丈太郎の娘と長岡がどうも仲がいいというようなことから、向うの馬越の方から養子に来てくれという話が来ておったというのであります。そうしたら党の方としまして、そのころ地区委員会を開いて、君は結婚する条件として、そこのうちの2階を党の事務所に提供するように、またその2階を事務所にするためには、君は結婚しなければいけないということで、地区委員会の決定として結婚さしたということを、私は本人からはあまり詳しくは聞いていないのですが、そのころの西日本石炭輸送株式会社のキャップをしておりました千田教文とか、酒田というのから聞いております。
また私が北海道へ参りましてから、おととしの夏ごろだと思いますが、小樽に陸志丸という船が入港しまして、その船の乗組員で實川虎雄という党員がおるのであります。その實川虎雄が、実は大下が結婚した、若松地区委員会の、若松海上区の大下が結婚した、それは、相手は配炭公団の女の党員で、名前は忘れましたが、大下がそのころ船に乗りたいというようなことを口に出していたそうなのであります、それで大下のような優秀な党員を船に乗せると、あとの補給が非常にむずかしい、それでどうしても大下を若松に残しておかなければいけない、彼を結婚させることによって残しておくことができるということで、海上区の決定として結婚させた、そしてその結婚したということを、その實川虎雄に、自分は愛情も何もない結婚をして、今後悔しておるということを話したということを實川虎雄が小樽へ入港して私に伝えております。
[360]
委員長 篠田弘作
それで、さっきあなたは共産党を脱党した理由について述べましたから、大体わかっておりますが、こういうような事実を聞くと、普通の神経の者なら脱党したくなると思うのだが、結局あなたはこういう事実を通して、自分のやっておることに対する反省から脱党されたのか、あるいはまたそのほかにも理由があったか、もう一度脱党の心境を、さっきのように簡単でなく、もう少し詳しく話してもらいたい。
[361]
証人(油谷炭鉱工員) 江川文彌
私が去年の5月か6月ごろだと思いますが、芦別で活動しておりまして、朝日新聞を読んだのであります。そうしたらその新聞の記事に、函館から出航しました第三旭丸の北鮮の密輸事件に対する文書が載っておりまして、私はそれを読んで行きますうちに、才門勘志露が船長で乗って行っているということと、それから党員である高田繁一がそれに乗船しているという事実を私がつかみまして、そのころは芦別地区炭鉱の方面に派遣になっておりましたけれども、北海道の海上区を設立し、またつくり上げた私としましては、あくまでも責任があると思いまして、それで才門勘志露に関しては、私が推薦し、私が確認の手続をとったということから、非常に大きく責任を感じたのであります。
そうして間もなく私の今までやっていたこと、またそういうことと関連のある密航、密貿易というものに対して、深く考えまして、共産党の地方委員会に質問状を提出したのであります。その質問状の内容といたしましては、実は自分は現在まで椎野から指令を受けて、九州でこういうようなことをしておった、また北海道ではこういうような事件が持ち上っておる。これに対して党としてどういうような態度をとるか、どういうような責任をとるかということを、意見書並びに質問状を出しましたら、党の方で私に対しては何も返事がないのであります。返事がないどころか、それから1日、2日ぐらいだと思いますが、少し遅れてアカハタに堂々と才門勘志露は党とは全然関係ないのだということを大きく発表したのであります。
そこで私たち党に入ってから脱党するまでは、いろいろな教育におきまして、共産党のアカハタ、前衛、そういう機関紙はあくまでも日本で一番権威のあるものだ、あくまでも忠実であり、あくまでも権威のあるものだ、このアカ八タに載っておることは、どんなことでも間違いない、君らは、このアカハタを信じて、アカハタを一つの指令として活動しなければならないとまで、われわれは植えつけられておる。そのアカハタにそれだけの欺瞞が完全に載っておるのであります。
そこで私は再び共産党の実体というものを私の胸に刻み込みまして、これだったらどうしても党と一緒にやって行くことはできない、私はそのころの心情といたしましては、単に脱党するということでなく、私が党を脱党して、そうして状態によっては、私が入党さした党員に新しい目を開かせるために、私が再び海上に出て行かなければならないというような気持もありまして、そこではっきり脱党するというような決心がついたのであります。
[362]
委員長 篠田弘作
要するにあなた方の信用していたアカハタというものに、あなた方の過去の経験からいって、まったく欺瞞が載っておったから、あなたは正直だから、それには耐えられなかったというのですね。
[363]
証人(油谷炭鉱工員) 江川文彌
そうです。
[364]
委員長 篠田弘作
それが動機になって自己批判を始めた。
[365]
証人(油谷炭鉱工員) 江川文彌
そうです。
[366]
委員長 篠田弘作
わかりました。だれか御質問ありませんか。
[367]
国民民主党 椎熊三郎
証人にお尋ねしたいのですが、証人は北海道海上区の設立の使命を帯びて北海道へ渡られた。その北海道へあなたが派遣せられる当時の状況です。日本共産党のどういう機関があなたを派遣したか、具体的にどういう人からあなたは、その命令を受けたか。
[368]
証人(油谷炭鉱工員) 江川文彌
私が北海道へ参りますにつきまして、九州地方海上区議長の永山正昭からすぐ中央へ行くようにという指示でありました。それで中央に参りまして、そこで私が信任状を出しましたら、そのところの若松の信任状に署名しておる署名、それから若松の印鑑の登録がまだ来ていないというのであります。
それでだれか知った人がいたら、知った人に会わして、そして確認するということになりまして、紺野與次郎氏に会いまして、紺野與次郎氏が間違いなく江川だということで、2階に上って行きまして、そのころ海上の全部の責任者をしておりました田中松次郎氏に会いまして、彼からいろいろな指示を受けました。それで北海道地方委員会に指令を持って参りました。
[369]
国民民主党 椎熊三郎
北海道にあなたが渡られてから、主として函館の北部機帆船の組合等を根拠として10名くらいの党員を護得したと言われたが、小樽、室蘭、釧路ではどの程度の党員ができましたか。
[370]
証人(油谷炭鉱工員) 江川文彌
そのころ室蘭におきましては、専任の海上オルグもおらなかった関係と、それから港から地区委員会に行きますのに汽車で40分以上かかるのであります。そういうような環境から、室蘭では直接入党した党員というのはおらなかったのであります。室蘭で入党する党員は、小樽なり函館で入党するようになっております。それから小樽におきましては、大型船の――たびたび1人2人と入党さしたので、総合した数が今記憶にないのでありますが、まず非常に大きく入党させましたのは、引揚船宗谷丸の乗組員を12人集団入党さしております。そのころ函館におきましても10何名入党さして、そして小樽へまわった。それですぐ小樽で入党しまして、そのころ25名くらいの党員が宗谷丸におりました。それから小型船では、小樽で4名の入党者がありました。そのほか釧路は海上の直接の入党者は認められませんでした。
[371]
国民民主党 椎熊三郎
あなたは中央で紺野与次郎氏の指令を受けて北海道に渡られて、党活動にただちに着手したのでしょうか。北海道に参りますと、一番先に札幌の地区委員会と連絡をとって、それからやるのですか。それともすぐ函館に来て単独で運動を開始したのですか。
[372]
証人(油谷炭鉱工員) 江川文彌
お答えいたします。これは党から派遣になりましたときには、北海道地方委員会あての文書を持って参りましたので、直接札幌に来て、そうしてそこから新しい活動を開始するのが至当なのであります。そのとき私は北海道の海上というものは全然わからないために、函館で連絡船を下船しまして、汽車の待時間がありましたから函館地区委員会に寄りました。そうして公式にでなく、非公式にそこの状態を質問しました。そのときちょうど西館氏が函館に来ておりましたので、地方委員会に持って行く書類を彼に渡しましたら、彼は封筒を切って、それを読みまして、すぐこれを地方委員会に持って行って、地方委員会の指示を受けるようにということで、地方委員会に持って行きまして、地方委員会ではすぐ受付で上の方に連絡をとりまして、あの日は廣谷俊二がおりましたが、廣谷俊二に会いましてから、具体的な北海道の海上の状態を聞き、指示を受けたのであります。
[373]
国民民主党 椎熊三郎
北海道地区委員会では西館君が委員長ですか、世間では廣谷君のように聞えているのですが、現在は西館君ですか。
[374]
証人(油谷炭鉱工員) 江川文彌
北海道におきましては、私の参りましたころは、議長としまして西館仁でありました。西館氏が逮捕されまして、そのあと佐貫氏が議長になっております。
[375]
国民民主党 椎熊三郎
廣谷というのはどういう立場ですか。
[376]
証人(油谷炭鉱工員) 江川文彌
そのころの廣谷氏は、単に後志方面を担当する北海道地方委員となっております。
[377]
国民民主党 椎熊三郎
あなたは毎月2500円ぐらいの金を地方委員会から受取っておるけれども、それはだれから受取るのですか。
[378]
証人(油谷炭鉱工員) 江川文彌
阿部徹志氏であります。
[379]
国民民主党 椎熊三郎
会計をやっておる人ですか。
[380]
証人(油谷炭鉱工員) 江川文彌
そうです。
[381]
国民民主党 椎熊三郎
西館はかつて北海道新聞の記者であったですか。
[382]
証人(油谷炭鉱工員) 江川文彌
その点はわかりません。
[383]
国民民主党 椎熊三郎
では別な点を承りたいのですが、北海道地区に、委員ですか、広谷のほかに荒井英二、瀬戸川というのがおるようですが、これらはどういう立場の人ですか。
[384]
証人(油谷炭鉱工員) 江川文彌
北海道地方の地方委員であります。
[385]
国民民主党 椎熊三郎
それは廣谷君などと同じような立場の人ですか。
[386]
証人(油谷炭鉱工員) 江川文彌
そうです。
[387]
国民民主党 椎熊三郎
あなたが北海道地方委員会に党を批判したような質問書を提出した後、あなたのそういう行動が非常に共産党の批判の的となって、あなたをそのまま活動させておいたのでは、共産党のために不利益である、何かこれを沈黙させるか、活動ができないようにするために、あなたを極端な神経衰弱あるいは狂人扱いをもって病院に入院させて、軟禁してしまうという計画があったように聞いておりますが、そういう事実はありますか。
[388]
証人(油谷炭鉱工員) 江川文彌
お答えいたします。昨年の5月か6月ころだと思います。私が第三旭丸の問題でいろいろ質問書を出したり何かしているときに、どうしても党に対して不信を持ち、不満を持ったら、いくら職業革命家であっても党活動は十分にできないのであります。それでそのころ毎日のように芦別地区委員会でぶらぶらしていたというような状態が一時あったのであります。
そのころ空知地方の空知対策の委員長だったと思いますが、鯰江というのがあります。この鯰江氏が芦別地区委員会に参りまして、大橋次郎という地区委員長と面会して帰りました。鯰江氏は私と小樽時代よく知っておるのですが、そのとき会わないで帰ったわけです。それから1週間くらい始終大橋次郎、またそこの家を貸しております竹原勇、彼らが私の顔を見ると、このごろ顔色が悪いなあ、からたが悪いのかということを口に出すのであります。私もみなに顔色が悪い、からだが悪いのじゃないか、元気がないと言われると、精神的にその気持になってしまうのであります。私もひょっとすると悪いかもしれぬということを話しましたら、それでは砂川に勤労者医療協会がある、そこの医者は同志だから、そこに行って診察してもらったらどうだ。それでもし君のからだが入院するほど悪いのであったらすぐ芦別に帰って来い、君は芦別に派遣されて来たのだから、芦別で責任持って入院なりまたはその治療なりをしなければならないということで、私は行くことを承認したのであります。
そうしたら、行くときにちょっと岩見沢の鯰江のところに寄ってこの手紙を渡してくれと言われて、一通の文書を預かったのであります。私はそれを持って汽車に乗って行きましたけれども、途中でどう考えてもやはりふに落ちない面があるのであります。そのふに落ちないということは、砂川の診療所に私が行く前に鯰江のところに寄らなければならないが、それよりは芦別から直接信任状が出せる。そういうような状態から非常に疑問を持って滝川の駅で下車したときに封筒のうしろをなめてあけてみますと、その中の文書といいますのは、文書全文そのままはちょっと記憶的に言えないのでありますが、概要を申し上げますと、先日鯰江同志と打合せた江川の件、きょう江川をそちらに差向けます。ちょっと体が悪いと言っているから診察を受けさしてくれ。また今後の江川に対してのすべての対策は鯰江同志に一任する。それで打合せの上よろしく処置されたいということでありました。ただそれだけの手紙であれば私としても、いや、これはありがたい、私のからだに対してこれだけいういろいろな人が心配してくれているということが考えられるのであります。だがそこに問題となるのは、私が出る前に私に言いました大橋の言葉、悪かったらすぐ帰って来い、芦別ですぐなおしてやる。そう言ったすぐあとに書いた手紙に、私を一任する、私のことは今後すべてまかせるということに大きな食い違いがあるのであります。
これで私が砂川の診療所に行ったらどうなるかわからない、おそらく帰って来られなくなるのじゃないか。現在の法治国家であれば、いくら共産党でも、人間としての私を拘束したりまたは監禁することは合法的にはできないのであります。だが一番合法的に事を運べるのは、その人間を病気と思い込まして入院させることが一番たやすいのであります。そうしてそのころの共産党の言辞といたしましては、1年後には革命が遂行される。2年後には革命が遂行される。革命は近いんだ。そうして勝利はわれわれのものだという空気が非常に高まっていたのであります。だからそのころの党員の当然の考えといたしましては、情勢のかわるまで私が表に出ない、だれかと会わなければ、私の今までやって来たこと、党のやって来たことがわからないで済むと思っていただろうというふうに私は理解したのであります。
[389]
国民民主党 椎熊三郎
あなたが北海道へ行った使令は北海道海上地区設定が主たるものであったように申されましたが、芦別は炭坑地帯であって、海上地区の組織内容とは構成分子もまったく違う。そこへあなたを差向ける。少くともあそこへしばりつけるような方法をとっていたのだとわれわれは想像するのですが、どういうことからそういうことになったのですか。
[390]
証人(油谷炭鉱工員) 江川文彌
派遣を命ぜられました当時は、私としては疑問を抱いていなかったのであります。それというのは、そのころ共同闘争または戦線の統一ということが非常に強く叫ばれていた。現在日本で完全なる職業オルグを持っているのは海上だけであります。そのほかのオルグは完全な政治性を高めて、きょうは国鉄で闘争があったら国鉄の闘争の指導に行って、そこで完全な国鉄の闘争を指導するような人物でなければいけない。またその人間が、あす農村へ入ったら農村のことを完全につかんでいて闘争を始め、国鉄の従業員と他産業の従業員またはあらゆる面の従業員を闘争へ結びつけなければいけないということになっていたのでありますが、私ははえぬきの海上関係者なんであります。それで陸上のことは非常常に暗い。北海道でも、炭坑のストライキは直接荷物とかそういうものの関係で船に影響を与える。また船のストライキは直接炭坑に影響を与える。そこに闘争をまき起したときには関連性をつけなければいけないということを言われておったのであります。そして行きましたけれども、あとになってから私のそういうような疑問のなかった考え方がだんだんかわって来たような次第であります。
[391]
国民民主党 椎熊三郎
あなたのしばらくおられた芦別の炭坑は、北海道の炭坑のうちでも共産党員の非常に多いところと私どもは理解している。それで、去年の参議院議員の選挙あるいはその前の衆議院議員の選挙等におきましては、ある地区では共産党の投票が大よそ1200票です。判で押したように同じなんです。しかるに今回の地方選挙においては、共産党員の町会議員2名が立候補していることはあなたも御承知であろうと思う。その両名とも落選して、投票数を合せると300足らずと私は記憶する。そうすると、その芦別における共産党の党員組織あるいは人、そういうものに非常な変化が起きたであろうと私は想像するのですが、そういうことがあったのですか。たとえば共産党員が多数脱党したりあるいは転向した、あるいは党に対する批判を持った。あるいは社会党に党略上まとめて投票をやったとか、何かそういう大きな変動があったのではないでしょうか。
[392]
証人(油谷炭鉱工員) 江川文彌
私が脱党するまでの期間は、ちょうど私脱党したころは参議院議員の選挙のころであります。そのころは非常に順調だったのですが、その後の党の動きというものは全然つかんでいないような状態であります。それに最近地方選挙がありまして、その直後に阿部という頼城で貸本をしている党員に会いまして、「いやに今度は投票数が少なかったな」と話したときに、かれは「いや、投票数はふしぎなことに党員数より少なかった」といいました。
[393]
国民民主党 椎熊三郎
そこで岩見沢にいる鯰江君というのは、あなたの身柄に対する非常な権威を持っているように外部からは批評されている。あなたの身体の活殺自在の権はかれにあるということを世間では言っている。どうしてそういう権力をあの人が持っているか。党ではどういう立場の人ですか。たとえば共産党の地下組織の中の非常に有力な幹部であるとか、あるいは本部から直接命令を受けて北海道地区の者を監視しているゲー・ペ一・ウー的な存在の人か、世間ではそういうふうにうわさしているのですが、あなたはあの人をどういうふうに考えますか。
[394]
証人(油谷炭鉱工員) 江川文彌
お答えします。鯰江氏との関係は、私が小樽におりましたときに、鯰江氏は一時小樽の委員長として参ったことがあります。そのときに鯰江氏といろいろ話をしたり協議をしたことがありますけれども、その後は鯰江氏とはあまり会っていないし、また鯰江氏は特別に私に対する権限とか権威というものは全然ないと思います。私も全然それは感じていませんでした。
[395]
国民民主党 椎熊三郎
最近北海道における地方の委員と称する、たとえば廣谷敬三、これは特殊な事情があって廣谷の家庭の事情を私知っているのですが、彼は最近選挙の直前から地下に潜行せざるを得ない事情にあるので、家庭を分離する。彼は父の家におった。父は私と特殊な関係のある人ですから、家庭の事情はよくわかるのですが、選挙の直前から地下に、潜行せざるを得ない事情にあるので、父に迷惑を及ぼすことは自分の本心でもないから別個の家庭をつくる。それはひとり廣谷だけでなくて、北海道における地方委員会というものはもはや逼迫せる情勢を感知して、地下に潜行する運動を開始しつつあるということを私は想像するのだが、共産党員たりしあなたはどういうふうに考えられるか。
[396]
証人(油谷炭鉱工員) 江川文彌
私が共産党に入って北海道で活動していたときには、大体合法的な動きをしていたのであります。だが私が脱党する前後から、共産党の中央委員が追放されましてから、共産党の動きはどういうふうにかわて行っているか、また組織としてはどういうふうにかわって行っているかということは、私は脱党してからは全然わからないのであります。
[397]
国民民主党 椎熊三郎
あなたがまだ脱党しない前だと思うが、北海道では代議士柄澤と志子君を除名したということを聞いておるが、そういう事実があったかどうか。
[398]
証人(油谷炭鉱工員) 江川文彌
それは私が脱党してからなのであります。そのころ芦別の党員から柄澤と志子は何か党の審議会にかかっているけれども、除名はされていないということを聞いております。
[399]
国民民主党 椎熊三郎
あなたは密入国、密貿易等に多少の関係を持たれておったが、これは主として朝鮮との関係のようだが、千島並びに南樺太との間のそういう関係はなかったのですか。
[400]
証人(油谷炭鉱工員) 江川文彌
千島や南樺太との密貿易の関係は、私は全然確認してないのであります。ただここにはっきり申し述べてあります文書の連絡だけであります。
[401]
国民民主党 椎熊三郎
あなたが九州の地区から信任状を持って上京されたが、その際九州地区から本部へいまだ通知がなかったということで、個人的折衝で紺野與次郎氏に面接した。共産党ではあなたのような重要な党員は、何か党員だけが知っておるような符号のごときものがあって、そしてあなたを江川なら江川と確認できる方法があると聞いておりますが、そういうことによって確認されたのですか。
[402]
証人(油谷炭鉱工員) 江川文彌
そのころは私の知っている範囲では、符号は使っておりませんでした。中央委員の紺野與次郎氏は九州におった人なんです。それで紺野與次郎と私とは始終顔を合わせていた関係上、彼が確認して承認したわけです。
[403]
国民民主党 椎熊三郎
あなたが北海道へ行ってからアカハタなどの欺瞞的記事を見て、共産党の不信行為をみずから感じたというが、そうではなしに、共産党の持っておる理念の問題で、あるいは中央の共産党が争っておるような主導派であるとか、国際派であるとかいわれておるが、あなたはそういうものに関係をお持ちなんですか。たとえば自分は国際派と称せられる方の意見が正しいと思うとか、あるいは主導派の意見が正しいと思うとか、どういう批判を持っておられますか。
[404]
証人(油谷炭鉱工員) 江川文彌
国際派または主流派という問題が大きく出て来たのは、私が脱党するころからであったと思います。私はそれに対しては深く感じていなかったのでありますが、海上区におきまして永山正昭、大阪の水野、それから中央にそのころおりました田中松次郎、これの3人の背比べという問題、非常に空気も違い、意見も違っていたということから、何か3人がしっくりしなかったという面はありました。私が北海道へ行きましてからも、いろいろ話をしますと、船で入港しました党員の当時無線の局長級の山科二郎とか赤羽というような人は、君のやり方は永山のやり方そのままだ。永山なんかの言うことは徹底的に間違っておる。彼は九州の永山天皇といわれておるではないか。田中松次郎というのは、単に肩書をつけたがっている人間だ、あれは中央に海上の対策とか何とかいって送ったのではない。単に書記局の書記として送った。それがああいうように出しゃばっておる。だから君なんか直接田中に対して文通してはいかないとまで言われたわけです。そういうようなことから海上では非常に分派的な争いが起っておったと思います。
[405]
国民民主党 椎熊三郎
あなたは党からも非常に批判されておるし、現在は党を脱党しておるのですが、あなたのその後の社会的行動はかなり大きな打撃を党に与えておる。従って北海道地区の今残っておる共産党員は、あなたの行動にかなりの注意を持っておると思う。私はむしろあなたの身辺が一つの危害に、何か逼迫した環境にあるように思う。そのことがあなたをして芦別に置いている理由になっておるのではないですか。あなたはみずからの身辺を保護するために、あたのほうとうの心境を知っておる多くの人々のおる芦別で安住しておる。そういう状態なのではないでしょうか。
[406]
証人(油谷炭鉱工員) 江川文彌
私が脱党してから間もなく、芦別の頼城という所にあります村上徳二郎氏の経営しておる村上工務所に坑内夫として勤めました。そうしてそこにおるときに、私は体はあまり丈夫でないということから事務をとっておりました。そうしたらそこへちょうど私が小樽で活動しておるときに始終顔を合せておりました神威内の党員の川村柳二というのがおるのでありますが、彼が私のいないときに、うちの方に採用してくれということで来まして、採用することにしたのであります。それで私よそから帰って来ましたら川村がおる。そうして彼といろいろ話しておりましたのですが、その後彼が君はひっくり返ったのだ、君は裏切り者だ、君は今後そういうことをしたらねらわれる、気をつけた方がいいということを忠告とも感じられるし、また脅迫とも感じられるような言辞を吐いております。
それから同じに村上組に坑内夫として働きに来ました、一昨年ソヴィエトから引揚げて来ました河渡健二という男があります。私が寮の方に行きましていろいろ話をしましたら、現在の共産党はそういうようななまやさしいものじゃない。権力は法律を無視し、すべてを無視してわれわれに対してこんな大きな弾圧を加えておる。これはもう暴力だ。今の共産党は、一歩後退二歩前進の、二歩前進しかかったのだ。それだからもう彼らが血をもって向ってくれば、われわれは血をもって進んで行かなければならない。暴力で来るものに対しては暴力だ。そこに出刃庖丁かなんか皮をむく庖丁のようなものがあったわけですが、そうしたら、君もそういうような動き方をしていると、こういうふうにやられるのだと笑いながら話をしたが、私はそれを私に対する脅迫の暗示として受けていたわけであります。
それから小樽の向うに茅沼というところがありますが、茅沼地区委員会の委員長をしておる大高貫八というのがおります。それは私が小樽におるころにしょっちゅう顔を合せておった男なのですが、新聞に出て1日か2日目に芦別に来ております。芦別の村上組に兄貴がおってそれが12月死んだから、そのために来ているというのであります。その日汽車の中で彼と会いまして私が寮に帰りましたら、寮の者はみんな非常におそれておる。江川さん、たいへんなことになるのではないか。あなただけたいへんなことになるならいいけれども、おれらまで巻添えを食ったらたまらぬということで心配しておるのです。そうしたらその晩に、夜10時過ぎだと思いますが、2人か3人して――寮の付近にはあまり家がないのでありますが、それなのに、人ががやがや話をしながら家のまわりをまわっている。みんな、来たんじゃないか、来たんじゃないかと言っておりましたけれども、私は、大丈夫だ、そんなばかなことは共産党でもしないと思っておったのです。そうしたら今度は部屋をのぞいて歩いた。女中の部屋をのぞいて、のぞくときに手をかけたのです。そしたらがたがたと鳴ったので女中が起きてみたら、人がのぞいていたので、女中がキャーッと大きな声を上げて騒ぎ出したのです。それで私も騒ぎ出したらどうすることもできない。またこれをうやむやにしておいたら、次に何か起きたときに困るということで、すぐ警察に連絡をとりました。そのときに頼城の隣の旭という所の派出所から巡査が2人来て、その窓のそばにある足跡、そういうものを確認して行きました。
それから皆が非常に心配しまして、もし君が今ここにいたらあぶないんじゃないか、こういうこともあるからといって、私に姿をどこかへ隠すことを勧めるのであります。私としては、共産党が私にそういう危害を加えるということは、記事に対する裏づけのようになるんじゃないか、そういう考えなしばかりいる共産党じゃない、大丈夫だと言いましたが、おれらも夜眠られないというので、私のなしたことがもしほかの従業員の仕事とか、そういうことに関するようなことがあればこれは重大だ。それじゃ私は姿を隠しましょうといって、現在の油谷炭鉱の佐々木虎十郎のところに行って働いておるのであります。
そうして先月の8日に、私が油谷炭鉱から用事がありまして頼城へ来まして、頼城で一晩村上さんの寮でとまりまして、次の日芦別へ参りました。そうしたらその日は雨が降って道が悪く、バスがとまっておったので、油谷炭鉱まで2里くらい歩かなければならない。昼歩いたら私が油谷炭鉱にいることがわかると思いまして、夜薄暗くなりましてから芦別を立ちまして、途中、歩いて行って、油谷がもう近いという所に踏切りがある。その踏切りのそばまで来ましたら、うしろから「恐れ入りますが……」と言われましたので、私は「何でしょうか」と答えました。そうしたら「ここから上芦別へ行く道はどちらですか」と言うので、私は「線路をまっすぐに行きますと、トンネルがあります。そのトンネルを越したらすぐ上芦別です」と言ったら、「ありがとうございます」と言ったが、すぐ離れない。それで「お気をつけて行きなさい」と私が振り返ったら、「ざまを見ろ」と言って、すばっと何かで額にさわったような感じがした。私が額に手をやりましたら、どろっと血が出ている。これはたいへんだと、すぐ油谷へかけつけて行きまして、手当をいたしました。そのきずが現在残っていると思うのです。
[407]
国民民主党 椎熊三郎
最後に、これでやめますが、余市に共産党だけでやっている病院がある。そこは、あなたのように党を批判したものを軟禁する場所だと世間では言っておる。あなたのような態度でそういう境地に置かれているような人があるのですか。あなたはそういううわさを聞いたことでもありますか。
[408]
証人(油谷炭鉱工員) 江川文彌
そういううわさは全然聞いておりません。
[409]
自由党 鍛冶良作
今椎熊さんからちょっと尋ねられた、樺太からそういう文書なんか来ておるところをみると、あなたは御承知ないか知らぬが、ほかのものも入っておるんじゃないかという考えは持たれませんか。
[410]
証人(油谷炭鉱工員) 江川文彌
ただいまの質問にお答えいたしますと、私自身の考え、また私自身の想像ということは、単なる想像であり、単なる考えであると思うのであります。
[411]委員長 篠田弘作
想像はいいじゃないですか。本人は文書だけを持って来たのであるから……。
[412]
自由党 鍛冶良作
それじゃよろしい。あなたが関係して朝鮮と九州との間に貿易されたのは、相当の数に上っておる。それらが今まで発見されなかった。発見されぬためにはよほど注意されたものですか。
また取調べ機関が不十分なために、こんなことでは絶対発見せられぬと思っておりましたか。
[413]
証人(油谷炭鉱工員) 江川文彌
先ほど私が申しましたように、特に党員を使わないように、またその乗組員に対しては全然党からのそういうものではないというふうに見せかけておるというところで、ある程度逮捕された人もおりますけれども、それが党の指示でやったということは一度も明るみに出ておりません。
それからただいまの不備という問題でありますが、若松へ入港しまして、また若松から出港します際の税関の検閲、または水上警察の検閲というものは非常に精密に行われ、非常に厳格に行われて来たのであります。だが朝鮮におきましては、それと全然正反対なのであります。
[414]
日本共産党 山口武秀
先ほどの証言の際に一応明らかになったことでありますが、さらに念のためにお伺いしておきたいと思いますのは、昭和25年3月9日付北海道新聞に証人の記事が出ておりますが、これは証人自身がしゃべったものに間違いないですね。
[415]
証人(油谷炭鉱工員) 江川文彌
はい。
[416]
日本共産党 山口武秀
そうしますとこの記事自体については責任を持てますね。
[417]
証人(油谷炭鉱工員) 江川文彌
お答え申し上げます。それに対してここでいろいろかわっている面を私が発見しましたことは、年月日が非常にかわっております。それにあがた丸と大安丸の違いがあります、それから一番最後の強制結婚、本人から直接私が聞いたということは、先ほど証言しましたように、私は若松で聞き、もう一つは小樽港で、その船の乗組員から聞いたということです。
[418]
日本共産党 山口武秀
あなたはこの年月日が違っておるということをあらかじめ申しませんでしたね、今初めて言いましたね。
[419][416]
日本共産党 山口武秀
そうしますとこの記事自体については責任を持てますね。
[417]
証人(油谷炭鉱工員) 江川文彌
お答え申し上げます。それに対してここでいろいろかわっている面を私が発見しましたことは、年月日が非常にかわっております。それにあがた丸と大安丸の違いがあります、それから一番最後の強制結婚、本人から直接私が聞いたということは、先ほど証言しましたように、私は若松で聞き、もう一つは小樽港で、その船の乗組員から聞いたということです。
[418]
日本共産党 山口武秀
あなたはこの年月日が違っておるということをあらかじめ申しませんでしたね、今初めて言いましたね。
証人(油谷炭鉱工員) 江川文彌
お答え申し上げます。年月日が違っているということは、あらかじめ申し上げませんでしたが、私の証言といたしまして、ただいまここでいろいろ質問されたときに、やはり新聞の日にちと、私の今新しく記憶にあります、またいろいろそのころから計算してみまして出ました日付がかわって来ておるわけです。やはり私はここで証言しまして、正しいものを出したい、初めから質問は新聞のこの記事に対する、また新聞のこの日にちに対することでなかったと思います。
[420]
日本共産党 山口武秀
これはあなたが発表したいと思って新聞にしゃべったことですから、発表になれば当然この記事が正確であったかどうかということは、特に丹念に読む立場になっている、そうだったろうと思う。だとすると、しかも内容において、日にちの点について重大な違いが幾つも出ておる、そういうことについてあらかじめあなたが気がついていたら、これが一番重大な問題だが、この点が間違っているということをなぜ言わなかった、あるいは新聞社にその申込みをしているのかどうか、この点をお聞きしたい。
(発言する者あり〕
[421]
委員長 篠田弘作
静粛に願います。委員長からの質問は、ここにあります通り、昭和25年3月9日付北海道新聞に証人の記事が出ておるが、これは証人が語ったものであるかどうかということを聞きまして、その次になぜ新聞に発表したが、その動機、心境を述べろということを言ったのでありまして、委員長は日付の点について質問をしておりませんでした。もしその点について間違いがあったとすれば、今の証人の言われたことを速記録にとどめまして、訂正しておきます。
[422]
日本共産党 山口武秀
ちょっと議事進行についてあらかじめ申し上げておきたいことは、私の質問中にほかの委員がかってに証人としゃべっておりますが、こういうことは委員長の方で取締ってもらいたい。
[423]
委員長 篠田弘作
承知しました。
[424]
日本共産党 山口武秀
それから私が先ほど質問した2点について、証人からまだ答弁がないのですが、この先ほどの2点を答弁してもらいたい。
[425]
委員長 篠田弘作
質問の要領が証人にわからないようです。もう一度御説明願います。
[426]
日本共産党 山口武秀
これはきわめて重大な日にちの違いということでありまして、私はこの発表は、単に新聞記者に証人が聞かれて発表したのでなくて、本人みずからが新聞を通じて発表したというような積極的な意図をもってなされたものであるし、ここに間違いがあれば、あらかじめ証人の方で新聞社へもこの点が違っておるというような訂正は当然なすべき立場にある。それがなされてなかった。こういうような関係に置かれた問題でありまして、どこが違っておるかと申しますと、先ほどの証言によりますと、本人の共産党入党は21年10月で、口頭で話をした。22年の6月に文書で入党した。これは共産党の建前から申しまして、文書で入党するのが当然でありますから、入党は22年の6月になるわけであります。ところがこの新聞によりますと、20年の11月に入党しておる。この間の日にちの違いというものはきわめて大きな関係を持っておる。というのは当時における共産党の活動状況、発展状況から見て、きわめて矛盾しておるものが幾つも出ておる。さらに翌年の2月に若松地区委員会の常任委員になっていたということを申しておりますが、先ほどの証人の証言によれば、このときには証人はまだ全然入党もしていないし、あるいは口頭で入党したということもなされていない。こういうような問題です。
さらに密貿易を椎野氏が指令したという問題について、昭和20年の夏永山を通じて当時党本部統制委員の椎野氏に会ったと言っておる。昭和20年の夏というのは終戦の年である。戦争が終った年である。このようなときにこのようなことがあるべき道理はないわけです。しかもなお当時の統制委員のいうことを言われておるが、当時統制委員というものはなかったはずだ。少くとも椎野氏はそういうものではなかった。それにもかかわらずこういうような記事が出ておる。これは単に日にちの違いだけだというような問題であるかどうか。
さらに先ほどの答弁に、椎野氏から話があったのは21年の春だと言っておる。これは単なる日にちの違いではないだろう。20年の夏というのが21年の夏というのならば、それは1年の言い違いということもあるかもしれない。しかしこれがまるきり違っておる。21年の春というのと20年の夏というのとは、何らの関連性もなければ、誤るべき性質のものでもない。こういうような幾つかの違いが出ておる。この点について聞いたわけです。
[427]
証人(油谷炭鉱工員) 江川文彌
お答えします。この新聞に出しますときには、新聞記者に、私は記憶をたどって話しますからということで、記憶をたどってずっと話していたわけであります。それから新聞に発表になりまして、その新聞を芦別で1度か2度すっと目を通しました。そうして油谷炭鉱という所が夕刊に出ておるのですが、油谷炭鉱は夕刊は1部か2部より入っていないのです。それで新聞の記事もはっきり確認しておりませんでしたが、先ほど何か昭和20年の10月ごろか11月ごろという記事が載っておると言いましたが、それは完全に間違いだということは、私は昭和20年の12月ごろ――終戦は昭和20年ですね。昭和20年の11月、12月ごろは、先ほど話しましたように大正丸という船で青函の連絡船に乗っていたそのころになっております。それでこの記事の日にちの違いというものに対しましては、あくまでも新聞の違いでありまして、私はきょうここで権威のあるものをはっきり述べることが正しいし、また述べなければならないと思うのであります。
[428]
日本共産党 山口武秀
証人の話はきわめてあいまいで、私はあなたの言うことは何を言っているのかわからない。少くとも自分が新聞社へ行って積極的に発表したものを、あとでちらっと見たとか、それからここへ来て言うのが、正しいとか正しくないとかいうことを私は聞いているのではない。あなたがそれほど積極的な意図をもって発表した記事を、なぞあなたはよく見なかったか。見ないというようなことは普通の常識からみて判断できない事実である。しかも見ていれば、たといすっと見ても、自分の発表したことがはたして正しく載っているかどうかということを当然注意しなければならない。今言われて日にちの違いに気がついた、ここへ来て初めてどれが正確であるか気がついた、こういうような話はないだろう。一体どういうわけですか。あなたの言うことは、われわれには全体として何を言っているのかわからない、信用できない。それだからそのときの動きを何をしたかということをはっきりしてもらいたい。
[429]
委員長 篠田弘作
質問だけにしてください。――要するに山口委員の質問は、日にちの違いをなぜそのときに訂正しなかったか、こういう質問です。だからそれだけについて、なぜ訂正できなかったかということを、あるいはそれほど積極的に意思がなかったか、とにかくしなかった理由について山口委員は、質問しておるのです。
[430]
証人(油谷炭鉱工員) 江川文彌
北海道新聞の記事……。
[431]
日本共産党 山口武秀
そんなことを言っているのじゃない。
〔「おどかすなよ」と呼ぶ者あり)
[432]
委員長 篠田弘作
北海道新聞の記事ですね。山口委員に注意申し上げますが、それは今証人が新聞を読んで確認をしておるわけだから、そういうことまでする必要はない。
[433]
日本共産党 山口武秀
それがわからぬ。自分の発表した重大な問題で、本人でさえ一番大きな社会的な問題だ。
(「また脅迫か」と呼ぶ者あり)
おかしいじゃないか。
(「君らの方がおかしいんだ」と呼ぶ者あり)
たよりない話だぞ。しかも国会へ来ているんだぜ。
[434]
証人(油谷炭鉱工員) 江川文彌
いや私の今新聞を見ているのは、北海道新聞とそれから西日本新聞と、その日にちの違いがないかということを確めているのです。
[435]
日本共産党 山口武秀
北海道新聞のことだけ聞いているんだよ。西日本新聞のことなんか聞いていはしないよ。
[436]
証人(油谷炭鉱工員) 江川文彌
お答えします。この日にちが非常に食違いがあるということは事実であります。それを私が取消さなかったということは私の不注意であります。はっきり申し上げます。
[437]
日本共産党 山口武秀
私はあなたに注意するとかしないとか、そういうことを言っているのじゃないのです。注意とか不注意だとかいうような問題じゃない。少くともあなたが積極的に新聞社へ行って発表した事実に対して、あとで読み返さないというようなことがあり得るものじゃない。
(「あり得たのだからしょうがない」と呼ぶ者あり)
あり得たということは、少くとも常人のことではない。しかもそれを読んでいながらわからない。今ごろになってそいつをここでまた読み始めておる。こういうようなことはどうしてもわれわれの常識からいうと納得できない。そのようなことをするとすれば、あなたの言うことは何を言っているのだかわからないとわれわれは判断する。少くとも常人の言うことじゃない。なぜあなたは読み返さなかったか、なぜ違っていたら違っていたで新聞社に積極的に発表するなり、この点が違っているということをあらかじめ言わないか。
[438]
証人(油谷炭鉱工員) 江川文彌
お答え申し上げますが、私が当委員会に出席いたしましたのは、あなたは常人のさたではないということを言われましたが、そういうようなことで来たのじゃないと思うのであります。常人のさたでないと言われると、それに対しての答えはできない。私としましてはそれに対するお答えとしましては、先ほど申しましたように私の不注意であったということと、今後帰ったら私はこれに対しての訂正を新聞社に責任をもって申し入れます。
[439]
委員長 篠田弘作
今の質問は、大体証人の証言によりまして不注意だったということがわかっておりますから、それ以上常人のさたであるとかないとか言ってみても、これは事実の証言を求めるために証人を呼んでおりますから、あなたのお考えを言わずに、事実に対する証言を求めていただくようにしていただきたいと思います。
[440]
日本共産党 山口武秀
私が言ったのは、この委員会に出て来たことが常人のさたでないというようなことを言ったのではない。証人の態度というものがそうなんだ。それから本人が今から帰って新聞社に行ってどうこう話をして訂正する、そういうことはわれわれの関知しないことである。われわれはそういうことを調べようとも言わないし、そういうことを言おうとも思っていない。少くともあなたのこの記事に対する態度というもの、これを発表されているあなたの態度というものは、少くとも客観的に見て常人のさたとはわれわれは普通には考えられない。
[441]
委員長 篠田弘作
われわれとおっしゃるけれども、山口君個人の見解じゃないのですか。われわれと言うと委員会全部をさしますから……。
[442]
日本共産党 山口武秀
しかしながら私一人だけではない。
[443]
委員長 篠田弘作
山口君に御注意申し上げますが、きょうはこの事件に対する証人の事実に対する証人を求めているのであって、証人に対する批判あるいは先ほど鍛冶君に注意しましたが、想像というようなものを聞いておるのではありません。その点をよく御認識の上御質問願いたいと思います。
[444]
日本共産党 山口武秀
私の聞いておりますのは、その事実と、それからその周囲の状況というもの、そういうものを明かにしないと、証人の証言というものに対して信憑性が疑わしい点が出て来た。
[445]
委員長 篠田弘作
だから不注意と言っておる。
[446]
日本共産党 山口武秀
不注意というような問題ではない。注意、不注意というようなことは本人の心がけの問題で、そういうことではない。われわれはそんなことに関知しない。本人の言うことがきわめてあいまいで、態度がはっきりしないから私は聞いている。それでなお私はその点に納得行くことができなかったということだけ明かにしてその次に移ります。
証人の先ほどからの話によりますと、証人は大分刑事上の問題にもひっかかって来るようですが、これについて、取調べられたことがありますか。
[447]
証人(油谷炭鉱工員) 江川文彌
お答え申し上げます。これに対して刑事上の問題で取調べられたということは、この問題で私がはっきりつかまったとか、また逮捕されたとか、発見されたということは、私自身の問題は、先ほどお話ししました洞南丸に乗っておりますときに、朝鮮で発見され、そうして神戸へ帰りまして、神戸の水上署に2時間くらい連行されまして取調べを受けた。それ以外にはありません。
[448]
日本共産党 山口武秀
その後において、証人がこの新聞発表を行ったその以前においてありませんか。
[449]
証人(油谷炭鉱工員) 江川文彌
お答え申し上げます。この以前においては、それ以外はありません。だが以後におきまして、北海道の芦別へ特審局から参りました。それから当委員会から今立調査員が参りました。そうしてそのときの内容と申しますものは、この発表したことについて、これは間違いではないかいうことを言われまして、いや、私としては決して間違いではありませんと答えただけであります。これ以外の詳しいことは私も話しませんでしたし、向うの方でも聞いていなかったと思います。
〔委員長退席、内藤(隆)委員長代理着席〕
[450]
日本共産党 山口武秀
多少先ほどの質問にもあったようですが、私にはなお不明な点がありますので、さらに詳細に、正確に聞きたいと思うのですが、このような問題があって、刑事上の問題も多少出て来る。そのようなことがあって、証人がことさらに新聞に発表の方法をとったということについては、なぜ新聞の発表というような方法を選ばれたのかどうか、この点についてお聞きしたい。
[451]
証人(油谷炭鉱工員) 江川文彌
お答え申し上げます。それにつきまして私の現在までにやっていたこと、その動きは、私の動きでなくて、私は党員としての動きであったために、党としての動いていた行動なのであります。そうして私の感じとしましては、脱党した以後も、やはり共産党がそういうふうな動きをしているときに、大衆が知らなかったら大きな問題である。
また私一人が、炭鉱夫として働いている経済的にも恵まれない私が、私のそばの人に口で言うということは、そばの人に納得させるだけにすぎないのではないか。それよりは新聞は公平な立場に立って大衆に伝えてくれます。大衆に私の心理、また現在までのなされていたことを大衆に知らすために出したのであります。
[452]
日本共産党 山口武秀
私、この問題を特に聞きましたのは、先ほど委員長の質問の際に、本人の入党の動機があったのでありまして、この本人が共産党へ入党するときの動機というものが、普通の共産党員の入党の動機とはきわめてかわっておる。共産党がはででやりがいがあるから入る、男気を感じて共産党へ入る。普通共産党に入るのには、私はこういうふうな動機があって入るということはあまりないだろうと思う。きわめてあなたは軽率だったと思う。
それで今回のこの新聞発表の問題につきましても、新聞発表というような、また例のはでな、あなたの表現では男気のある、こういうようなことから始まったのじゃないかと思う。少くともあなたかもう少し慎重に、もしあなたが間違いを起したと考えるならば、もっと謙虚になって、謙虚な方法があったのではないか、これでは入党のときと同じように、相もかわらず浮かれているような気持をわれわれに感じさせるのであります。
[453]
証人(油谷炭鉱工員) 江川文彌
これに対してお答え申し上げます。私の発表が何か浮れておるようなことだということを、ただいまお聞きいたしましたが、実は私が党を脱党いたしましてから今年の3月まで、非常に月がたっておるのであります。その間十分考えて考えて考え抜いた末に発表しておるのであります。それでその発表をする前も、党の方から私に会いに来ておる人がおります。その人とも私はひざを交えて話しておるのです。そのことについて詳しく申し上げますれば、去年の10月――8月から10月ごろだと思いますが、月ははっきりわかりませんが、芦別の大橋委員長があす上部機関から人が来るから、私に会ってくれないか。
(「新聞社になぜ発表したのだ」と呼ぶ者あり)
出すとなった気持がやはりそういうことによって……。
[454]
日本共産党 山口武秀
よけいな点でなく、問題点だけ……。
[455]
委員長代理 内藤隆
それでは詳しく聞かなくてもいいのだね、浮かれているかどうかということを、浮かれていない、慎重にやっておるということを証人が言おうとするのだが、聞かなくてもいいのだね。
[456]
日本共産党 山口武秀
いや、聞かなくてはだめだ。
[457]
証人(油谷炭鉱工員) 江川文彌
ではお答え申し上げます。それでそのときに、大橋委員長が上部機関の人に会ってくれと言われましたが、私も承認しました。そうしたら今ここであなたにこれに対しての脱党届とかいろいろなものに対してのことは全然聞かない。聞かないけれど、あす来たら言おう、そういう話をしようということで来ましたら、そのころ北海道地方委員会で主婦新聞というのを出しておりました責任者の若松という女の同志が参りました。そうしてそこでいろいろ話をしておりましたが、その中で私がこの密輸入という問題を大きく出しましたら、いや、それは大きな声でここで話さぬでくれ、ここの人はみんな非党員ばかりなんだから、非党員にこういうこうを聞かれたら撹乱になるから、そうして大橋君の言うには、だが今の状態では、君も知っておる通り密貿易はやむを得ないのじゃないか。現在党の財政がどうなっている、こうなっているということは君も知っているだろう。現在日本の権力は、党に対しては法を無視し、法律を蹂躪し、すべてのものを蹂躪して弾圧して来ておる。そのときにわれわれだけが法律を守って、はたして闘って行けるか。向うから品物を持って来て、その金でわれわれが闘うということは大衆のためになるのだ。持って来たということは、向うから品物を持って来た場合には、何も大衆は困らぬはずだ、その金で大衆のために闘えば大衆のためになるということを言われましたが、私はそこではっきり申し上げました。私はあなたがそう言うのであれば、日本共産党を義賊とみなす。私はあくまでも義賊の味方はできない。昔義賊といわれた石川五右衛門でも、そういう人たちは大きな金持の家の倉庫を破って、そこから金を持って来る。これは何も大衆は痛いことはないのであります……。
[458]
日本共産党 山口武秀
私の聞いておるのは、そういうことを聞いておるのではない。なぜ新聞に発表されたかという問題です。
[459]
委員長代理 内藤隆
山口君、あなたのお聞きになったのは、証人の新聞に発表した態度は、まことに浮かれておるような気持だ、こうあなたは聞いたのでしょう。そこで証人は、そうでない、自分は断固として慎重を期しておる、その道程を説明しておる。
[460]
日本共産党 山口武秀
その説明になっていない。
[461]
委員長代理 内藤隆
なっているかいないかは、みんな聞いておる通りじゃないか。
[462]
日本共産党 山口武秀
客観的になっているか、いないかだ。
[463]
委員長代理 内藤隆
それではこの証人の答弁は、やられては困るのですか。
[464]
日本共産党 山口武秀
答弁は質問以外のことを言っておる。要点を一向言っていない。
[465]
委員長代理 内藤隆
あなたの要点に触れようと思って、今盛んに一生懸命にやっておるのじゃありますんか。
[466]
日本共産党 山口武秀
それは委員長まじめにそんなことを考えておるのか。
[467]
委員長代理 内藤隆
まじめに考えておる。
[468]
日本共産党 山口武秀
ぼくはそんなことをちっともまじめには考えていない。先ほど日にちの記憶を聞けば、あいまいで、何を言っておるかわからない。しかも新聞発表の態度のきわめて不明確である。それから先ほど一番初めから質問されておるのを見ると、答弁できないで、たびたびメモを開いて見ておる。そういうふうな態度でありながら、椎熊君の質問で、関係のなような共産党の党内問題、あるいは柄澤君の問題などが出ると、得々としてしゃべり出す。私の質問に対しても、何ら要点に触れないで、脇道を話す。この被告……(笑声)いや、証人というものは、私としてはどうしても納得できない。
[469]
委員長代理 内藤隆
あなたの納得行くような質問をもう一ぺんやってください。
[470]
証人(油谷炭鉱工員) 江川文彌
その前に、これはちょっと委員長にお伺いします。ただいま委員が被告という言葉を使いましたが、これは証人としまして……。
[471]
委員長代理 内藤隆
絶対に被告ではありません。証人であります。ただいま向うは取消しております。続けてください。山口君に対する答弁を。
[472]
証人(油谷炭鉱工員) 江川文彌
それで私は、これは義賊だ、義賊的な行為に対してはあくまでも相いれることができない。それはこういうことから来ておるのであります。密輸入をして密輸入品を持って来ても、それは大衆に何も害を及ぼさない。その金で大衆のために闘えば、それこそプラスじゃないかということです。それから見ると、昔の義賊というものはどういうものか、大きな金持の家の倉をこじあけて、千両箱を出す。それは何もそこらの貧民階級は全然痛くない。その中の何割かをそういう大衆――というのは、もう大抵働いておるような人です――その人たちに分けてやったら、それは神様のように思うでしょう。そうすれば、それは何も悪いことじゃなくて、言葉の上では合理化できる。だがわれわれは言葉の上で合理化させるのではなくて、あくまでも法律は法律、憲法は憲法として守らなければならない。石川五右衛門でも、大衆には石川五右衛門さん、石川五右衛門さんと言われていても、彼は罪人して処断されたということを、私はそこではっきり出しまして、私はこれでもう党とは完全に切れるということになったのであります。そういうところから私の新聞で発表するということは、私自身よりも、より強く彼らの方からも拍車をかけて来たのでございます。
[473]
日本共産党 山口武秀
一番終りの10秒か15秒で言えることを大分前置をつけたようですが、私の聞いているのは、そういうような問題があるならば、新聞発表というような、いわゆるはでな方法をとらないで、証人は前の入党のときにもきわめて軽率な入党をしておるのであるから、なぜ相談すべきところへ相談に行かないか、そういうような方法がとられるべきではなかったか。
[474]
証人(油谷炭鉱工員) 江川文彌
お答え申し上げます。相談しに行くところに、どうして相談に行かなかったかと言われますが、私が若松へ参りまして――若松へ来るまでは非常に長く船乗り生活をしておりましたので、各港には相当知合いもおりますけれども、芦別の町におきましては、党の活動以外はあそこにいないのであります。それであそこの近所で相談する人といいましたら、おそらく党員ばかりであります。それで党員とは、前に証言しました通り、大橋が私の方からでなくて、向うの方からも会っているような状態であります。
[475]
日本共産党 山口武秀
それではだれかに相談してみようかということを考えたが、知合いがないので、そういう方法をとらなかった、こういうことですか。
[476]
証人(油谷炭鉱工員) 江川文彌
もう一度証言します。この新聞に出すということに対しましては、相談といいますか、直接その人にあって相談したことはありません。だが文書で一度連絡をとった人はいます。
[477]
日本共産党 山口武秀
連絡をとったのはだれですか。
[478]
証人(油谷炭鉱工員) 江川文彌
それは全日本海員組合の組合長蔭山さんであります。
[479]
日本共産党 山口武秀
その相談は、新聞に出すことについて相談したわけですか。
[480]
証人(油谷炭鉱工員) 江川文彌
新聞に出すということに対してでありません。私の入党さした党員が現在海上に相当数いる。またそういう党員の中にも、無理に入党さした人もおるということから、ほんとうの海上の民主化という面を考えまして、私は少くとも最小限度の私の責任としては、私の育った海上をまず手をかけなければいけない、その海上の大衆にこれを訴えたい、また海上の大衆に対して正しい見方を伝えたいから、これに対していろいろ機関紙に出すとか、またはどういうような方法で出したらいいか、もし便宜がありましたらお知らせください、とやっただけです。
[481]
日本共産党 山口武秀
その回答はどうなんですか。
[482]
証人(油谷炭鉱工員) 江川文彌
申し上げます。その回答としましては、あなたの気持はよくわかっておる、そして海上の民主化のために自分の信念通り闘ってくれ、そしてまだいろいろ私のきたこととか、大衆に訴えたいということに対して、前の手紙では具体的じゃないから具体的な面を教えてくれという手紙が参りまして、それに対しては私まだ返事を出しておりません。
[483]
日本共産党 山口武秀
相談する人がなかった、知合いがなかったということを言われておりまするが、知合いがなかったということを言うならば、新聞社にも私は知合いがなかったと思う。相談する人ということで行くならば、知合いのなかった新聞社にわざわざ何するということがあるならば、その地方の町村長にも知合いがあるだろう。あるいはここにいる椎熊氏というようなこういう人にも相談すればできることなんです。こういう方法を選ばれないで新聞発表という方法を選ばれたことが少々納得しかねるところがあると思う。
[484]
証人(油谷炭鉱工員) 江川文彌
お答え申し上げます。だれそれに会って出すとか、またはだれそれに相談する、またこれは相談しなくても出さなければいけないというようないろいろの気持は、そのときの状況または環境、または一番大きく支配するものは、私の精神的な環境によってだと私は思います。
[485]
日本共産党 梨木作次郎
あなたは先ほど九州の若松地区委員会で、21年の春に椎野さんに会いましたと言いましたね。それは間違いありませんね。そのとき、椎野何と言いましたか。
[486]
証人(油谷炭鉱工員) 江川文彌
椎野悦郎です。
[487]
日本共産党 梨木作次郎
椎野悦郎氏をどういうように紹介されましたか。その会う以前には椎野悦郎氏とは面識はあったのですか。
[488]
証人(油谷炭鉱工員) 江川文彌
お答えします。ただいまの記憶ではその前に会っているかいないか、私はわからないのです。
[489]
日本共産党 梨木作次郎
その21年の春に若松地区委員会で会ったときは、今の記憶では初めて会ったと記憶しているか、その前に椎野悦郎氏に会ったと記憶しておるかどうか、どちらですか。
[490]
証人(油谷炭鉱工員) 江川文彌
おそらく会っていない。これは単なる記憶です。漠然としております。
[491]
日本共産党 梨木作次郎
メモを持っているようですが、もう一ぺんはっきり確認してみてください。
[492]
証人(油谷炭鉱工員) 江川文彌
21年の春ころ。
[493]
日本共産党 梨木作次郎
そのあなたのメモはどういうところからつくられたのですか。何か日記とかそういうものから抜き出して来てつくったものか、それともあなたの記憶を書いたものか、どっちですか。
[494]
証人(油谷炭鉱工員) 江川文彌
記憶でございます。
[495]
日本共産党 梨木作次郎
あなたは先ほど21年の12月に日本共産党へ入党することを口頭で話し、さらに22年の6月に書面で入党申込をした、こう言いましたね。
[496]
証人(油谷炭鉱工員) 江川文彌
ただいま、前に申し上げましたのは21年の夏……。
[497]
委員長代理 内藤隆
椎野君に会ったのは、ただいまの君の証言では21年の春ころと言った。
[498]
証人(油谷炭鉱工員) 江川文彌
はっきり申し上げます。先ほどの21年の春と言いましたのは間違いです。取消します。22年の夏です。21年の春大正丸ということを上に書いていた、それをちょっと見誤ったのです。
[499]
委員長代理 内藤隆
22年の夏に椎野君に会ったのだね。
[500]
証人(油谷炭鉱工員) 江川文彌
はい。
[501]
日本共産党 梨木作次郎
だからはっきりメモを見なさいと言った。メモを見ても21年春、しかも入党したのは22年6月、その前に椎野悦郎に会ったと言っている、今取消したけれども。あなたはそのときに、さきの証言では椎野さんから党の財政が非常に困っておるから力になってくれ、こういうことを言われたと言いましたね。そのときに具体的には、朝鮮へ品物を持って行ったり、あるいは朝鮮から品物を持って来るというようなことに力を貸してくれというような話に結局はなった、こういうことを言われましたね。ところで日本から持ち出した数はどのくらいありますか。
[502]
証人(油谷炭鉱工員) 江川文彌
数と申しますのは、どのくらいか、月に1ぺんとか、または1年に何べんというようなことだったらはっきりわかりますけれども、数というのは私にははっきりわかりません。
[503]
日本共産党 梨木作次郎
そうすると、あなたは直接運搬をしたわけではないのですか。
[504]
証人(油谷炭鉱工員) 江川文彌
そうです。先ほどから証言しております通り……。
[505]
日本共産党 梨木作次郎
よろしい。あなたは直接運搬しておらないのですね。
[506]
証人(油谷炭鉱工員) 江川文彌
椎野氏と会って、椎野氏に指示されたものに対しては私は直接携わっておりません。
[507]
日本共産党 梨木作次郎
直接自分が運んだものはないのですね。
[508]
証人(油谷炭鉱工員) 江川文彌
はい。
[509]
日本共産党 梨木作次郎
そうすると、どういうものを運んだかもあなたは知らぬのですか、知っておるのですか。
[510]
証人(油谷炭鉱工員) 江川文彌
そのころは九州から持ち出された品物、また朝鮮から持ち込まれた品物というものは、党の指示で動いた船でなくても一定しておったわけであります。それに九州の福岡にドムという喫茶店……。
[511]
日本共産党 梨木作次郎
それはあとで聞きます。とにかくあなたは持って来た物、持って行った物を直接見たことはないのですね。持って行くのを直接目撃したとか……。あなたは直接運んだことはないと先ほど言いましたね。そこであなたが直接運んで来たりしたことはないとすれば、人が運んで行くのを直接目撃したことがあるかないか、そういう事実があるかどうか聞いておるのです。
[512]
証人(油谷炭鉱工員) 江川文彌
それは折尾の、先ほど申しました人が品物を駅まで持って行くときか、また日本から朝鮮に持って行く品物を船員が受取って船に持って行くときは、たまたま見たことはあります。
[513]
日本共産党 梨木作次郎
中身は見ましたか。
[514]
証人(油谷炭鉱工員) 江川文彌
中身は見ません。
[515]
日本共産党 梨木作次郎
それではどういう中身のものかわかりませんね。
[516]
証人(油谷炭鉱工員) 江川文彌
それは向うの方から来た船員が、大体今度はどういうものを持って来たとか、また今度こっちの方からどういう品物を持って行くからそれを伝えてくれぬかというようなことから、私が想像できるのであります。
[517]
日本共産党 梨木作次郎
そうするとあなたは直接持って行ったり、持って来たものの中身は見たことはないが、船員たちの話から想像して、どういうものが持ち運ばれたり、持って来られたりしたと想像しているわけなんですね。こういうことに聞いてよろしいのですか。
[518]
証人(油谷炭鉱工員) 江川文彌
そういうことに想像してよろしいことと、それから……。
[519]
日本共産党 梨木作次郎
いや、ぼくの聞いたことにだけ答えてもらって、またあとで聞いて行きますから……。とにかく船員の……。
〔「それじゃ誘導尋問だ、言おうとするところを途中で切ってしまう」と呼び、その他発言する者あり〕
[520]
委員長代理 内藤隆
静粛に……。当時あなたは党員だから、党員として船員から聞いたのですね。
[521]
証人(油谷炭鉱工員) 江川文彌
そうです。
[522]
委員長代理 内藤隆
その点きっぱりもう一ぺん言ってもらいたい。
〔「誘導尋問」だと呼び、その他発言する者あり〕
[523]
委員長代理 内藤隆
静粛に……。梨木君、今明瞭に答えますから聞いてください。
[524]
証人(油谷炭鉱工員) 江川文彌
お答え申し上げます。それに対して私の方からも、船員にどういうような品物を持って来たかということを質問したこともあります。それで答えてもらったこともありますし、また折尾の責任者が、コーヒーとか、ココア、それからサッカリン、そういうものを博多または小倉の喫茶店に入れたということを私に言われております。私は直接その中を見て確認したのではなくて、その人たちからはっきりそう聞きました。
[525]
日本共産党 梨木作次郎
それからあなたは先ほど麻薬も朝鮮から持ち込まれたということを聞いたと言われましたね。その麻薬というのは、モルヒネとか、コカインだというのは、自分の想像だと言いましたね。そこで麻薬の実体は、モルヒネかコカインかということは、これは自分の想像だ、こういうように聞いてよろしいのですね。
[526]
証人(油谷炭鉱工員) 江川文彌
そうです。
[527]
日本共産党 梨木作次郎
そうするとあなたは、日本から朝鮮ヘ持って行ったり、それから向うから持って来たものは、どういうように処理されたかということについて、直接には関係しておらないのですか。
[528]
証人(油谷炭鉱工員) 江川文彌
直接関係ございません。
[529]
日本共産党 梨木作次郎
この新聞の記事を見ますと、1回の密貿易で17~18万円が党の資金にまわったというように書いてありますが、これはあなたの想像ですか。
[530]
証人(油谷炭鉱工員) 江川文彌
お答え申し上げます。私が船に乗っているころからいろいろ判断しまして、大体持って来れる範囲というのはきまっている。船の中で1人で持って来る範囲は大体きまっている。それから見まして、1人で1航海このくらいの品物を運べるということからの想像であります。
[531]
日本共産党 梨木作次郎
次にお伺いいたしますが、樺太から入航して来た船で文書を運んで来たということの証言がありましたね。それに関連して聞きたいのでありますが、それはいつごろでありますか。23年の10月ごろとかこの新聞には出ておりますが、そのころですか。それは間違いないですか。
[532]
証人(油谷炭鉱工員) 江川文彌
お答え申し上げます。戸畑丸が持って入りましたのは、22年の秋ごろと思います。11月か12月です。それから大安丸が小樽に入港しましたのは、24年の春ごろです。
[533]
日本共産党 梨木作次郎
そうすると、そのころは樺太にはまだ抑留されている日本人がおって、引揚げを継続中であったかどうかということについて記憶がありませんか。
[534]
証人(油谷炭鉱工員) 江川文彌
戸畑丸のころはよくわかりませんが、引揚げが継続していたと記憶しております。
[535]
日本共産党 梨木作次郎
24年大安丸の時分も引揚げが継続されておったと記憶しますか。
[536]
証人(油谷炭鉱工員) 江川文彌
継続されていたということは、私の記憶でありますが、記憶としましては、そのころ小樽港に樺太の引揚船が入っていたために――終ってから入っていたためにそういう記憶があるのか、樺太の引揚げをやっていたと記憶しております。
[537]
日本共産党 梨木作次郎
そうすると最初の戸畑丸の場合は、封筒の表紙には日本共産党中央委員会と書いてあったんですね。
[538]
証人(油谷炭鉱工員) 江川文彌
はい。
[539]
日本共産党 梨木作次郎
裏には何と書いてあったか。
[540]
証人(油谷炭鉱工員) 江川文彌
先ほど証言しました通り、今記憶がよみがえって来ないのですが、マークといいますか、何かそういうようなものと思います。
[541]
日本共産党 梨木作次郎
マークというのは、何か印刷したものですか。それともどういうものでしたか。
[542]
証人(油谷炭鉱工員) 江川文彌
いえ、筆記したものです。
[543]
日本共産党 梨木作次郎
書いたものですか。
[544]
証人(油谷炭鉱工員) 江川文彌
そうです。
[545]
日本共産党 梨木作次郎
それは大部のものですか、それともそう部厚なものじゃないのですか。どういうものですか。あなたは見たのですか。
[546]
証人(油谷炭鉱工員) 江川文彌
はあ、見ました。白い大型の角封筒に入っていた。こうして持ってちょっとしとっとするくらいです。
[547]
日本共産党 梨木作次郎
それを渡すために持って来た人はどう言っておりましたか。
[548]
証人(油谷炭鉱工員) 江川文彌
そこの港の名前は忘れましたが、そこへ上って行きましたら、軍人と言っていましたが――今ちょっと出て来た記憶なんですが、中尉か何かやっていたと思います。将校だと思います。
[549]
日本共産党 梨木作次郎
どこの将校ですか。
[550]
証人(油谷炭鉱工員) 江川文彌
ソビエトです。
[551]
日本共産党 梨木作次郎
ソビエトの将校が渡したのですか。
[552]
証人(油谷炭鉱工員) 江川文彌
ええ。
[553]
日本共産党 梨木作次郎
だれに渡したのですか。
[554]
証人(油谷炭鉱工員) 江川文彌
戸畑丸の矢島昇です。
[555]
委員長代理 内藤隆
通信士でしたね。
[556]
証人(油谷炭鉱工員) 江川文彌
通信土です。
[557]
委員長代理 内藤隆
その矢島昇に渡したというのですか。
[558]
証人(油谷炭鉱工員) 江川文彌
そうです。
[559]
日本共産党 梨木作次郎
それで矢島氏は、これは秘密の文書だと言われて持って来たのですか。
[560]
証人(油谷炭鉱工員) 江川文彌
向うから受取るときは、秘密と言われたか言われないか、それは私にはわかりません。だが日本へ入港しまして、外地から帰って来た船は、サーチと言いますか、船内検査があります。それでそのときも当然持って上れないので、そういう場合も隠して来た。それが私たちはソビエトから来るとか、また外地からの文書は非常に大事なものだと思い込んでおります。それでこういうような大事なものはみんなに見せられないから、そっと隠して持って上るということで私たちは秘密に扱っております。
[561]
委員長代理 内藤隆
ちょっとと江川さんに聞きますが、さいぜんあなたの証言の中で、矢島昇なる通信士は共産党員だとおっしゃいましたか。
[562]
証人(油谷炭鉱工員) 江川文彌
はい。はっきり共産党員と申し上げます。
[563]
日本共産党 梨木作次郎
その次に、大安丸の場合はどういうものですか。
[564]
証人(油谷炭鉱工員) 江川文彌
この大安丸の場合は、やはり封筒は同じ白い封筒でありますけれども、表書きはやはり中央委員会あての表書きです。裏書きには何にも書いてありませんでした。
[565]
日本共産党 梨木作次郎
それを西館氏に渡したというのですか。
[566]
証人(油谷炭鉱工員) 江川文彌
そうです。
[567]
日本共産党 梨木作次郎
西館氏はこれをどうしたかわからないのですか。
[568]
証人(油谷炭鉱工員) 江川文彌
わからないのです。
[569]
日本共産党 梨木作次郎
あなたは北海道新聞に「日共の実体を世に訴う」という記事を提供されたということでありますが、その記事を提供した後において、警察か検察庁の取調べを受けた事実はありますか。
[570]
証人(油谷炭鉱工員) 江川文彌
先ほど証言いたしましたように、警察、検察庁の取調べは受けておりませんが、特審局から参っております。
[571]
日本共産党 梨木作次郎
私さっき席をはずしておったので聞き漏らしたのですが、特審局はどういうことを聞きましたか。ちっと簡単に。
[572]
証人(油谷炭鉱工員) 江川文彌
それはこの記事のこととか、また密航、密貿易が事実かどうかということです。それで私としましても、そのころまだ官憲とかそういうような関係の人に対して、自分の気持を打割って話をするような心境でなかったために、あまり詳しいことは話していないのです。
[573]
日本共産党 梨木作次郎
もう一つ先ほどの点で聞き漏らしたのでありますが、あなたは日本から朝鮮へ、朝鮮から日本へ渡って来るということをせわしたことは、1回未遂があっただけだと言われましたね。1回だけですか。
[574]
証人(油谷炭鉱工員) 江川文彌
私直接手をかけてせわしたのは1度だけです。それは未遂に終りました。
[575]
日本共産党 梨木作次郎
さっき未遂とおっしゃったのは、日本へ連れて来たのでしょう。
[576]
証人(油谷炭鉱工員) 江川文彌
朝鮮で出航の寸前おろされたということを話しました。
[577]
日本共産党 梨木作次郎
そのことであなたが首になったのですか。
[578]
証人(油谷炭鉱工員) 江川文彌
はい。
[579]
日本共産党 梨木作次郎
椎野さんから、朝鮮から物を運んで来る場合、これはどういうふうにして朝鮮で品物を調達して日本へ運んで来るかということについての話がありましたか。
[580]
証人(油谷炭鉱工員) 江川文彌
それに対しまして、朝鮮の状況は、そのころの朝連の朴いう人にいろいろ相談すると、向うの状態がはっきりわかる。だから向うの方に行って、それをやる前に詳しく状態を聞いて、そしてその中から分析してやってくれということを言われました。
[581]
日本共産党 梨木作次郎
ではその朴君からどういうことを聞きましたか。朴君に会ったのですか。
[582]
証人(油谷炭鉱工員) 江川文彌
会いました。
[583]
日本共産党 梨木作次郎
会ったなら、会ってどういうことを聞いたか、それを簡単に。
[584]
証人(油谷炭鉱工員) 江川文彌
実はこういうようなことを言われて、こういうようなことをやれと言われた。それに対して向うの方では、どういうような方法が一番やりやすいかということで話しまして、向うの朝鮮の方には李福祥という人が釜山におります。その李福祥という方は、前に日本におりまして、終戦後朝鮮に渡りまして、朝鮮の釜山で本屋をしておりましたけれども、今度本屋をやめまして、船舶の食糧積込み業をやっているわけですが、パス・ポートを持っているために、いつでも出たり入ったりできるわけです。それでその人はある程度朝鮮の官憲を買収しているために、船に品物を持って来たりするのが非常にやさしい……。
[585]
日本共産党 梨木作次郎
そこまではわかりましたが、品物を調達するのにはやはり買うのですか。買って来るのかどうかということ聞きたいのです。
[586]
証人(油谷炭鉱工員) 江川文彌
ここらから持って行った金では買えないのです。それでこっちから持って行った品物と物々交換というような状態になります。
[587]
日本共産党 梨木作次郎
そうすると、あなたは先ほど日本から品物を運ぶなり向うから品物を運んで来ることは義賊だと言われましたが、物々交換なら盗んだことにならないのじゃないですか、そこはどうですか。
[588]
証人(油谷炭鉱工員) 江川文彌
お答えいたします。私が先ほど義賊だと言いましたのは、盗んだとか盗まないということが罪になるということよりも、法律を破ると当然罪人となるというのであります。
[589]
日本共産党 梨木作次郎
どういう法律を破ることになるのですか。
[590]
委員長代理 内藤隆
ちょっと梨木君。義賊ということは単なる比喩で言ったのです。
[591]
日本共産党 梨木作次郎
あんたに聞いているのじゃない。証人に聞いているのです。どういう法律を破るのですか。
[592]
証人(油谷炭鉱工員) 江川文彌
お答え申し上げます。終戦後朝鮮は日本の国ではないのであります。それで日本から朝鮮へ品物を持込む場合には、当然これは密輸出になる。また向うから持って来る場合は密輸入になります。私は法律の方ははっきりわかりませんが、税関法とかいろいろそういう法律があると思います。また密輸出、密入国という問題になればこれは朝鮮と日本という違った国の間の国際的な問題もあるのじゃないかと思います。法律的に。
[593]
日本共産党 梨木作次郎
そこで聞きたいのでありますが、あなたは最初に椎野さんから、そういうぐあいに力を貸してもらいたいと言われたときには、やはり法律を犯すんだということを考えておったのですか。
[594]
証人(油谷炭鉱工員) 江川文彌
お答え申し上げます。考えておりました。そのころの私は、やはり教えられた通り、また自分がいろいろアカハタとかそういういうような新聞を読んで、現在の共産党をどうしても守り通さなければいけないから、自分を犠牲にしてまでもというような気持がありました。
[595]
日本共産党 梨木作次郎
それでは自己を犠牲にして日本共産党のために活動するという心境が、その後になって――自分をも含めてこういうことをやったと新聞に発表しておるそうですが、これはどういう心境の変化なんですか。
[596]
証人(油谷炭鉱工員) 江川文彌
それは先ほどの証言で何べんも述べているのです。
[597]
日本共産党 梨木作次郎
じゃこういうぐあいに聞きます。あなたがさっき述べられました昨年6月函館港で第三旭丸ですかの密貿易事件が発覚したということですね。あなたはこれには自分の知っている人が関係しておったのに関係がないとアカハタで発表した、こういうわけですね。それがけしからぬということで心境が変化したということになるのですか。そこのところがちょっとわからないのです。
[598]
委員長代理 内藤隆
ちょっと梨木委員に聞きますが、これは詳細に述べぬと……。あなたは心境を聞いておるのですか。
[599]
日本共産党 梨木作次郎
そうです。
[600]
証人(油谷炭鉱工員) 江川文彌
お答え申し上げます。九州におりますときに、同じ海上の仕事をしておりました私の上の人がたくさんおります。江副誠二とか永山正昭、海上の党員でも優秀なのがたくさんおりまして、しょっ中討論をしておりました。私が党に対しての忿懣または矛盾を少しでも感げるようなことがあれば、徹底的に党独特の批判をされるわけです。そういうことから、党の決定その他党のものはすべて絶対的に正しいのだ、絶対に守らなければならないというふうに感じておりましたために、私としましても、党のそういうような矛盾に対して深く考える気持はなかったわけです。
それが北海道へ参りましたら、海上のことは私の責任においてある程度私がやらなければならない立場になった。前九州にいるときは、これはこうなっているがどういうような対策を立てるかということは永山さんとかそういう人に相談したが、今度は下の党員から相談を受けるというような立場で、今まで無批判的であったのが、自分で批判して納得してからそれを遂行するというような方向にかわって、そのころから自分に対する批判的な面も出て来たし、党に対する批判的な面も出て来たわけです。
そのころからずっとめばえたものが、先ほどもお話しましたように第三旭丸事件、そういうようなものでますます強くなった、拍車がかけられたというのです。
[601]
日本共産党 梨木作次郎
あなたの先ほどの証言によりますと、椎野さんからはなるべく非党員を使えというように言われたと言いましたね。それは結局そういう仕事と党の仕事は切り離すようにしなければならないというようにあなたは考えておったのですか。
[602]
証人(油谷炭鉱工員) 江川文彌
お答え申し上げます。当然私に対して指示をした椎野氏、またそれを財政的に取扱う人、九州の財政に関係しておりました同僚の方、また私に対して、党の資金はということを提議されたこと、それから非党員を使ったということは、全然それと切り離せる仕事というのではなくして、相手方には当然資金獲得のためにということをわからせないようにするためとか、また相手が検挙された場合には全然党と関係ないというような状態に持って行くためにやった……。
[603]
日本共産党 梨木作次郎
そうすると、あなたの今の証言によりますと、あなたは椎野さんから――つまりあなたが言われたような仕事と党の仕事は別のものだというように対外的にはしなければならぬものだということは承知しておったわけでしょう、そのときから。どうです。
[604]
証人(油谷炭鉱工員) 江川文彌
お答え申し上げます。党のものと、それからそのものと別個に考えなければならないということは考えませんでした。現在もそうでしょうが、そのころの党の規約によりましても、党の財政としてつくり上げるということはあくまでも党の仕事であり党のやっていることなのです。
[605]
日本共産党 梨木作次郎
ちょっととぼくの聞き方が悪いのであなたに通じないらしいが、つまり私はこういうことを聞きたいのです。いろいろ今の証言を聞いておりますと、あなたは北海道に行ってから自分の責任においてやるようになった。そこでいろいろの仕事についても批判的になって来た。しかし直接の動機は、第三旭丸の密貿易事件が発生して、その中に自分の知っておる党員がおった。ところがそれはアカハタではまったく関係がないと発表された。これは党はけしからぬ、こういうことで拍車をかけられたとあなたはおっしゃるのだが、そのときにそういうことで非常に憤慨されたというのは、私にはちょっと理解しにくいのであります。
なぜかというならば、当初からあなたが聞かされておったところによっては、もし発見されたら、これは党と関係がないようにしろと言われておったように言われる。だからいまさら第三旭丸のときに、そういうような処置がかりに行われたといたしましても、そのことを非常に憤慨するのはどうも私は納得が行かないのですが、いかがですか。
[606]
証人(油谷炭鉱工員) 江川文彌
お答え申し上げます。これは先ほど証言いたしました通り、これに乗っておりました才門勘志露というのは、普通の船員ではなくて、函館なんかではみんながわかっている党の海員オルグなんです。それに私が地区委員会に出しました質問状に対しまして全然答えがなく、そしてアカハタに党と全然関係がないということを発表した。
私は党のアカハタは絶対的なものだということを教えられている。今後私たちの指導者――もし党が非合法に入った場合には、中央から直接指令が届かないかもしれぬ。その場合には非合法時代でもガリ版でまでアカハタが出されていた。アカハタそのものがわれわれの指導者であり、われわれの指令でなければいけないということがしょっちゅう言われておる。そういうようなアカハタに対して信頼性が持てなくなったら、全然活動できなくなる。私はそういうすべてのものに裏切られたということなんです。そういうことから強くなった。
[607]
日本共産党 梨木作次郎
そこの裏切られたという感じが私には非常に不自然なんであります。あなたが当初椎野氏から言われたと称するその仕事の部面からいいましても、第三旭丸の密貿易事件について、かりにそこに党員が関係しておったといたしましても、またさようなアカハタの記事が出たといたしましても、それはあなたにとっては非常に思いがけないやり方だということから、たちまち党に対する信頼がなくなるというようなことは、それだけではなくして、ほかに何らかの動機だとか、いろいろな原因があったのじゃありませんか。
[608]
証人(油谷炭鉱工員) 江川文彌
先ほども証言いたしましたように……。もう一度言ってください。
[609]
日本共産党 梨木作次郎
その点はそれくらいにして、そこでその次に、あなたの考え方からいっても、法に触れるようなことをやった。しかも法に触れるようなことを堂々と新聞に発表して、検察庁、警察から何らのおとがめがなかったということはどうもおかしい。あなたは、実際は初めから共産党の内情をスパイするために共産党へ入り、そのためにこれを暴露したけれども、検察庁、警察において何らおとがめがなかったのだと思いますが、その点はどうですか。
[610]
証人(油谷炭鉱工員) 江川文彌
お答え申し上げます。私がどこかのスパイじゃなかったかというようなことを言われておりますが、私の党員時代は、おそらく私の無二の親友がスパイであっても、私は摘発するくらいの気構えを持ってやっておりました。全然そういうようなことはありません。
[611]
日本共産党 梨木作次郎
そこでとにかくこの事件を発表したけれども、警察や検察庁から何の調べもなかったことは、これは間違いないですね。
〔「特審局がやった」と呼ぶ者あり〕
[612]
証人(油谷炭鉱工員) 江川文彌
お答え申し上げます。新聞記事を書いたときに、頼城の警察部長の1人が来ておりました。だがその人は私に対して調べるような言辞は全然使いませんでした。
[613]
日本共産党 梨木作次郎
第三旭丸の密貿易事件というものはどういうように処理されたか、御存じですか。
[614]
証人(油谷炭鉱工員) 江川文彌
お答え申し上げます。ただ才門勘志露、それから高田繁一が懲役を宣告されまして、そうして内幌の刑務所に入ったということは聞いております。その後はわかりません。
[615]
日本共産党 梨木作次郎
あなたはこういうことを発表したら、警察や検察庁から、第三旭丸の密貿易事件もこういうぐあいにして検挙されておるんだから、自分のところにも手が延びるというようなことについては、どういうような見通しを持っておりましたか。
[616]
証人(油谷炭鉱工員) 江川文彌
申し上げます。私の見通しとしましては、おそらくこれを出しまして、警察とか検察庁で捜査するだろう、もし捜査をして裏づけができたら、私が処罰されるものであったら処罰されるだろう、処罰されないものであったらこのままでおるかもしれぬというような気持でありました。
[617]
日本共産党 梨木作次郎
あなたはこの新聞発表をするについては、共産党の不正を暴露して、徹底的に共産党というものをやっつけなければならぬという動機から新聞発表をされたということでありましたね、その通りでありますか。
[618]
証人(油谷炭鉱工員) 江川文彌
はい。この新聞に記事を発表することによりまして、そして大衆に現在の共産党というもののやり方、やっておることを敢然と訴え、そして今後情勢いかんによりましては、私も出かけて行きまして、彼らと闘わなければいけないような情勢になるのではないかということは自覚しておりました。だが現在私の経済的な事由とか、または環境的な理由によりまして、今のところはどこへもぽんぽん飛び歩くようなことはできない。
[619]
日本共産党 梨木作次郎
あなたは共産党の不正というのは、結局こういう密貿易のようなことをやっておることが不正だとおっしゃるのですか、まだほかにありますか。
[620]
証人(油谷炭鉱工員) 江川文彌
お答え申し上げます。この新聞に出ておる密貿易、密航、こういうような問題が自分でキャッチした、はっきりしたものであります。
それからこれは法的には不正という言葉は使われないかもしれませんけれども、現在の党員――少くとも私が入党さしました党員は、ほんとうに彼らに理論的なものをつかまして入党さしたり、ほんとうに革命的な気概をもって入党さしたりしたのではなくて、どうだ、とてもいいから入党せぬか、いいところだから入党せぬかといって、何か口の先で言葉を弄して入党さして、そうして入党さしたら、彼らが少しでも変な動きをしたとか、不満を持つとか、動けなくなったら、君はひより見主義者だ、または君は分派主義者だと言って徹底的にたたくことによって、彼らは脱党もできないし、弱いことも言えない、そういうふうにして育てて来た党員が相当数海上におるのであります。それでそういうような間違いもこれによってなくさなければいけないということからです。
[621]
日本共産党 梨木作次郎
そうすると、あなたの先ほどからの証言も、やはり共産党をやっつけるための意図からさような証言をなされておるのですか。
[622]
証人(油谷炭鉱工員) 江川文彌
私の意図は、これは直接共産党に関係してのことは共産党と闘わなければならないと思いますが、私はこれを、単に共産党と闘うために私が何か生在している、今後生在するというような間違った考えをつけてはいけないと思いまして、はっきり言いますが、私は日本共産党であろうと、また権力であろうと何であろうと、不正またはごまかし、虚偽というものに対しては、やはり日本人として徹底的に闘って行かなければならないし、また闘って行く。
[623]
日本共産党 梨木作次郎
この新聞の記事の中に「ところがこの紹介状の分厚さにまた疑いを持った同氏がこれを開封して読んだところ、江川氏の党に対する反抗が細々とかかれ、この診断によって同氏を入院加療を要する病人として処置されたい旨が述べられていた。」これは事実ですか。
[624]
証人(油谷炭鉱工員) 江川文彌
それは先ほど証言しました。
[625]
委員長代理 内藤隆
梨木君、ちょっとあなたに申しておきますが、さいぜんのあなたの証人に対する質問の中に、ここを共産党をやっつけるための闘いの場面にしたかというような意味の質問があったのですが、それはそうじゃないので、本日のこの証人は不正入出国に関する件に対する証人として来ておるので、決して共産党をやっつけるために来ておるのではない。それを申し上げておきます。
[626]
日本共産党 梨木作次郎
それはわかっております。ただそういう心境で供述したのかということを聞いたのですが、もうこれで終ります。
[627]
委員長代理 内藤隆
他に御質問ありませんか。
[628]
自由党 福田喜東
一点だけお聞きします。ソ連から機密文書を預かって来てあなたに渡した大安丸の事務長の有馬という人は党員ですか。
[629]
証人(油谷炭鉱工員) 江川文彌
党員です。
[630]
自由党 福田喜東
現在は高級艦員ですか。
[631]
証人(油谷炭鉱工員) 江川文彌
高級船員です。
[632]
自由党 福田喜東
現在も事務長をやっておるのですか。
[633]
証人(油谷炭鉱工員) 江川文彌
現在はわからない。私が海上から脱けて来るまでは完全に事務長をしておりました。
[634]
自由党 福田喜東
現在話に聞きますと横浜の通信協会に勤務しておって、それの方の連絡をしておるという話でありますが、あなたはそういうことは聞いたことはないですか。
[635]
証人(油谷炭鉱工員) 江川文彌
有馬敬氏のその後の動向については全然わからぬです。
[636]
自由党 福田喜東
それからこれはだれか質問したかもしれませんが、こういう密入国、密出国の犯行が連続して行われているのに、それが捜査当局の間に問題として上って来たことが非常に少いということは、何かその間にあなた方がその当時においておかしいと思われることはないか。つまり官憲の腐敗とか、その他相互の連絡、つまり自治警、国警、海上保安庁あるいは税関等において、何かおかしいと思われるようなことは感じなかったですか。
[637]
証人(油谷炭鉱工員) 江川文彌
その点につきましては先ほど証言いたしました通り、九州若松の近所の警察、またはそのころの海上保安庁というのはあまり大きくなかったので、目立たなかったのですが、税関は非常に厳密な捜査をしておりました。それに船員が陸上へ何か持って上っておるというようなときには、水上警察の警察官だけでなく、陸上の警察官も同じに取調べておりました。私の感じといたしましては非常に連絡がとれていたのではないかと思います。
それと反対に今度は日本から出て行ったということについては、そういうように一生懸命取調べても、取調べる人より船員の方が船内の構造に詳しい。それとまた日本から積み込むときと日本でおろすときに気をつければ朝鮮はもう問題にならない。
朝鮮におきましてはどういうような官憲の取調べがされておったかというと、私が洞南丸に乗り込んでおりますときに、朝7時ころ入港したのであります。そうしたら8時ころにセビロを着た人がランチで船に来まして、どうだ、内地から品物を持って来たのなら売らぬか、揚げてくれぬかというので、関税のサーチもまだ済んでいないからだめだというと、いや税関の方の話はおれがつけるから大丈夫だというので、船員としては税関のサーチのある前に陸に揚げてしまえば絶対安全ですから、それじゃ頼むというわけで、少し安くその人間に渡した。そうして8時か9時くらいに税関からサーチに来ましたが、そのときに来た税関の人はだれかというと1時間か2時間前に品物を買って行ったその人間が胸に税関のマークをつけて来ただけにすぎないのです。
それから朝鮮の釜山におきましては、われわれはライター5つ、万年筆5本という言葉が合言葉のようになっておったのです。それは朝鮮の釜山の岸壁に出入りするところの、または中で監視しておるところの警官とか、そういう人たちにつかまったら、何でもライターを出す、ライターで苦い顔をしたら万年筆を出す、そうすると十中八、九までオーケーで通っておるいう状態であります。
そうしてそのころ朝鮮には朝鮮の普通の警察官の上に特察隊というのがありました。その特察隊の――名前は忘れたが、その人がおれに何々の品物を売ってくれと言うて船に来ましたときに、それはどこそこの人が持って行ったと言うたら、よしそれじゃおれがぶんなぐって持って来るというようにしたり、ほかの警察官がその警察官の向うを張ったら徹底的にやっつけられるということで、非常に恐れていた。だから向うの方では持って上ることも持って出ることも、どんなことでもできる。
[638]
委員長代理 内藤隆
他に御質問がなければ、江川証人に対する尋問はこれにて終ります。証人には遠いところ長時間御苦労でありました。