押し寄せる朝鮮人 押しかける朝鮮人 ~ 在日特権への道 3/3

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昭和27年07月02日 衆議院 外務委員会
[056]
政府委員(国家地方警察本部長官) 斎藤昇
6月25日及びその前日に起りました、いわゆる朝鮮動乱勃発2周年に当りまする、朝鮮人の国内における全体の動向について申し上げたいと思います。

全国といたしましては、御承知の大阪の待兼山におきまする盛大な前夜祭を皮切りにいたしまして、全国で120箇所において、いろいろな会合を催すものがあつたのでございます。その120箇所の中で、いわゆる北鮮系と申しますのが、110箇所、南鮮系というのが10箇所であります。参加人員の朝鮮人は、北鮮系が1万9000、南鮮系が2000名とわれわれは考えております。

集会の形式は、あるいは追悼式、あるいは記念式、あるいは人民大会等の各種記念行事を開催をいたしたのでありますが、その終了後は、大部分がデモ行進を行いまして、警察署あるいは市町村役場、税務署等に押しかけまして、抗議陳情等を行つたのであります。その間デモ隊は火炎びん、竹やりこん棒、石等をもちまして、派出所の破壊あるいは米軍将校に対する暴行、巡査駐在所に対する火炎びんの投入、あるいはPD工場に対する不法侵入等の不法行為をいたしまして、不法事犯は発生件数といたしましては22件であります。大阪の待兼山及び吹田操車場を一円といたします事件、これを1件と数え、また新宿東口における事件、こういうものを1件と勘定いたしまして22件であります。

そのうち、そのとき及びその直後において検挙いたしました件数が9件で、検挙人員が126名であつたわけであります。その後若干時日がたつておりますから、検挙件数がふえておると存じますが、その際取締りに従事いたしました警察官のうちで、128名が重傷を負つた次第であります。

これらの事件を、概要各箇所について申し上げてもいいのでありますが、非常に時間がかかりますので、一番大きくありました大阪の事件をまず申し上げてみたいと存じます。

大阪は、24日の夕方8時ごろから、御承知の豊中市と伊丹の境界に近い、豊中の部分でありますが、待兼山というのがございます。前の浪速高等学校のあとで、今大阪大学の北分校と呼んでおりますが、そこのグラウンド及びその近くにある待兼山一帯の地域の一つの丘、これをも待兼山と呼んでおるそうでありますが、ここに約800名の朝鮮人及び学生、自労が集つたのであります。大体500~600人が朝鮮人、200~300人が学生及び自労と、かように認定をいたしております。

事前の情報によりますと、伊丹の飛行場及び待兼山の近くにあります進駐軍のハウスを襲撃するという情報を得ておつたのであります。集まつた連中は、事前にはキヤンプ・フアイヤーをやるというふれ込みであつたのでありますが、学校のグラウンド及びその丘陵地に、一方には300名、一方には500名ぐらい集まりまして、ここで火をたき、いろいろ革命歌を歌い気勢をあげていたのであります。そのうち一部が待兼山の竹林で竹やりをつくりまして、10時20分ごろに3箇所でのろしのような花火を打ちあげたというのでありますが、それを合図に非常に形勢が攻撃的に見えたのであります。間もなくいたしまして、500名くらいが進駐軍ハウスの方に移動すべく見えたのでありますが、われわれかねての情報によりまして、進駐軍ハウス及び伊丹の飛行場は、進駐軍とも連絡をいたして厳重な警備をいたしておりましたために、ハウスに突入することはなかつたのであります。後にハウスのすぐ近い所に火炎びん1個を投げたのがわかつたのでありますが、ここに突入することなく、一隊は石橋駅の方に向い、一隊は裏山の方に行くかに見えたのであります。

石橋駅に集まりました約600名は、1時過ぎから2時半ごろに至るまで駅長と電車を出す出さぬの交渉をいたしまして、結局3時前に電車を出させました。これは大阪までの切符を600人分買つて乗つて行つたのであります。ところが途中で服部駅で急に停車を命じ、指導者が全員下車を命じまして吹田の方に向つたのであります。吹田の方に向う途中で1箇所駐在所に火炎びんを投げまして、それから旧阪神国道の方に徒歩で参つたのであります。これらの部隊はそのときには竹やりも何も持たないで、ただふろしき包みのようなものを持つた者ばかりであつたのでありますが、これが約600名とわれわれは勘定をいたしておるのであります。

ところが一方裏山の方から萱野村及び山田村の方を通つて行つた部隊があるのであります。これが200名前後であろうと思うのでありますが、夜中でまつ暗で十分わからなかつたのでありますけれども、あとでわかつたところによりますと、途中で笹川良一氏の留守宅のガラス窓を破壊し、さらに吹田操車場の労組の副委員長が右翼偏向であるというので、ここの家を襲つて吹田の方に出て参つたのであります。途中で服部駅から出て来た群衆と一緒になりまして、そこで山越えの連中がかねて準備をしていた竹やりを全部渡したというのであります。

吹田の方に現われて来ましたときは、ほとんど全員が竹やりで武装し、あるいは火炎びんあるいはラムネびんを下げて吹田の操車場の中に入り、ここで進駐軍の貨物列車を探し、おそらくその進駐軍の貨物列車が発見できたならば、これに火炎びんを投げ、破壊しようといたしたと思うのであります。

ところが警察官もここで警備をいたしておつたのでありますが、それが見当らず、そのまま隊伍を組んだまま、さらに新しい阪神国道、いわゆる産業道路に出まして、その出たところに、ちようどクラーク准将が出勤の途上に出くわしたのであります。そこでこの准将の車に火炎びんを投げまして、ガラスを割り准将は顔に若干の負傷を負い、衣服を損傷したのであります。

それからさらに産業道路を西進いたしまして、そのときに吹田市の市警の次長が茨木の市警の応援隊を乗せたトラックでそのデモ隊のかたわらを通過をして、この状況を早く本署に報吉しようというので、かけ抜けようとしてそのデモ隊に接触をいたしましたとたんに、火炎びん4個を投げられまして、茨木の市警の職員16名がやけどを負い、ただちに16名だけが飛び降りたのでありますが、そのうち2名がひどく殴打されまして、人事不省になり、そこで拳銃2ちようを奪われたのであります。

デモ隊は速度をゆるめることなくどんどん西進いたしまして、さらにその途中にある駐在所、派出所3箇所をそれぞれ破壊、暴行を加えまして、吹田駅に参りました。折から到着しておりました満員の通勤電車――ちようど8時ごろでありますが、それに飛び乗つたのであります。警備をしておりました警察官が、そこで検挙をいたそうとして乱闘に相なつたのでありますが、汽車は満員で婦女子もたくさん乗つております。車内に警察官が入るとたん、火炎びんを投げる、列車も燃え出す、あるいは竹やりを投げるというので、一般人に負傷が起ることを非常に憂えまして、そこで十分な検挙はできなかつたのであります。この際にさきに奪つた拳銃であろうと思うのでありますが、これを警察官に向つて1発暴徒が発射をいたしたのであります。警察官は3発応射したのでありますが、そのたまは撃つたデモ隊員に当らないで、他のデモ隊員に当つてけがをさせたのであります。ここで24名を検挙いたしたのであります。さようなわけで、ここで全員検挙はできず、やむなく列車が発車をいたしまして、大阪の梅田駅に到着をいたしました。

梅田駅におきましては、大阪警視庁が、かねて連絡によりまして、この間10分前後でありますが、さらに20数名を検挙いたしたのでありますが、何といたしましてもラッシュ・アワーであり、人の混雑するところでありましたので、完全な検挙ができなかつたのであります。その後検挙を進めておるのでありますが、検察庁と打合せの上、これらの一連を騒擾罪をもつて起訴すべく捜査をいたしておるのであります。全部で今まで逮捕――今日の状況は知りませんが、一昨日までの間に逮捕をいたしましたのが52名でありまして、うち5名は釈放して、現在47名を勾留中であります。そのうち日本人が20名、朝鮮人が27名ということに相なつております。これはデモ隊員の割合を示すものだとは考えられないのでありますが、たまたま逮捕された者が20名と27名という状況に相なつております。

これらの一連の動向をつぶさに検討をいたしますと、まつたく計画的な、しかも非常に、少くとも一部は、地勢も十分以前から研究もし、これらの行動について非常な訓練を経た一種の、彼らの言葉でいう、もはや人民軍というような形態を整えておるように思うのであります。山越えの行動距離は徒歩で5里、服部からおりた部隊の徒歩の行動距離は約3里、この間を自警、国警のそれぞれの間を縫い、しかも巧妙に、最後に吹田操車場において列車を襲撃をするというときまでは、足の弱い、しかもまだ十分訓練されていない者は、大阪に帰る――ほとんど大部分はそう思つていたようでありますが、大阪に帰るということで、電車に乗せて、そうして急に服部駅で停車を命じて全員を下車をさせ、しかもこれらは竹やりを持たせずに、旧国道を山田村の方に向けてそうして一方まつ暗な山道を竹やりを持つた部隊と合流し、そこで完全武装をさせるというような事柄は、急にそのときに起つたでき心でなされたものではないのであります。ことに待兼山からおりて、裏山を通つて萱野村に出るときも、電灯様のもので信号をしておつたということも見えておるのであります。あらゆる点が非常に組織化された暴動隊という、しかも非常な機動的な動きをしたということにおきましても、われわれ将来かようなことのあるであろうことは予想いたしておりましたが、現実の問題として出て参りました最初の事例である、かように考えておるのであります。従いまして、われわれといたしましても、これらにつきましては非常に重大視をいたしまして、これに対する対策等も怠りなく検討をいたしつつある次第であります。

これに次ぎました大きな事件は新宿事件でありますが、これは大体御承知のことかと存じますので、省略をいたします。他は各県で20数件事件を起しておりますが、特にここで取上げて申し上げるほどの新規なものはありません。大体今までのやり口のものばかりでありますから、もしどこの事件を説明しろということでございましたらいたしますが、一応私はこれで説明を終ります。





昭和27年11月14日 参議院 地方行政委員会
[014]
参考人(市長会代表池田市長) 武田義三
過去の朝鮮人のあの登録におきましても、私どもの市長室に相当押しかけて参りましたが、いろいろ縷々説明をいたしますならば、これが安定をいたして順調に登録をいたした。





昭和29年04月14日 衆議院 決算委員会
[139]
自由党(自由民主党) 中山マサ
それは私もまことに憂えている問題の一つでございます。と申しますのは、今年の初めでございましたか、昨年の終りでございましたか、全国の朝鮮人の人たちが東京で大会をいたしております。そうして一部の人たちは文部省に行き、他の一隊は、ちようど50人ばかりであつたかと存じますが、私の部屋に押しかけて参りました。その第一線に立つている人は、まるでフアツシヨン・ブツクから抜け出したようなすばらしいかつこうをした朝鮮の人たちでございました。

私が記憶いたしますることをたどりますと、外務委員会で外人登録をやる当時でございましたが、そのときも、たしか林百郎さんであつたかと記憶いたしますが、共産党の人の紹介によりまして前の方に傍聴に来ておりました者の一人が、登録をするということに決定したことについて、委員会が終りましてから、非常に罵言讒謗をしたことを私は覚えております。その人たちの中におつた1人が、50人ばかりの人、学生もございました、朝鮮人の学校の先生と称しておる人もおりました、子供もおりました、いろいろの階層の人を引連れて、私の室に押しかけて来たのであります。その言うところを聞きますと、日本人に対する生活扶助と、自分たち第三国人に対する生活の扶助とに差別待遇をしておるのじやないかといつて非常な意気込みでございます。決して差別待遇はしていないのだと私がしきりに説明をいたしましたけれども、これを聞き入れませず、あげくの果てにはわれわれは税金を納めておる。それにもかかわらずわれわれには投票権がないじやないか。まことに何と申しましようか、とんでもないことまで言い出して騒ぎ立てたのであります。

私は、外人登録をした以上は、その国において投票権がないのは当然のことである。ハワイにおけるわが第2世が、朝鮮へ行つてまで命を捧げたにもかかわらず、いまだにアメリカの大統領選挙においてはその投票権がないのであるから、日本においてもまた外国人である場合には、投票権のないことは当然であるということを説明いたしましても聞きませずに、非常に騒いだのであります。1時間もそういうふうなことを言い立てておりました。

こういう状態でございまして、考えてみますと、これだけのことを、しかもこの国のよくない経済、底の浅い経済状態におつてして行かなければならないということは、まことに遺憾と申しましようか、残念と申しましようか――李ラインの事柄が外務委員会においていろいろと問題になつたことを私は外務委員として記憶しております。そしてこういう朝鮮人に対する生活保障は打ち切るべきでないというような話のあつたことも記憶をいたしております。しかし外務大臣は日韓の会談についても、何とかして再開をして行かなければならないのだから、そういうことをすべきではないという発言をなすつたことを私は記憶をいたしておりますが、これは何とかして早急に外務省関係で、日韓会談を開催していただきまして、何とかそこで妥結策を講じていただいて、引取るべき人は引取つてもらう、そうしてお互いに親善の道を講じて行かなければならぬ。

厚生省といたしましては、現在日本におります以上は、生活に困つております者を放置しておきますれば、結局はこれを監獄で養わなければならないということでございますから、生活補助費を与えるか、あるいは監獄で養うかという問題になるのじやなかろうかと私は考えるのでございます。でございますから厚生省としては、打つべき手は今ないのでございます。結局これは外交問題として解決の日を急いでもらうよりはかにないのではなかろうか、こう考えておる次第でございます。





昭和29年04月27日 衆議院 地方行政委員会
[046]
政府委員(国家地方警察本部長官) 斎藤昇
それではこの8件の事件の概要を申し上げます。

浜松市内における事件と申しますのは、昭和23年4月4日から6日までに起つた事件でありまして、朝鮮人経営の浜松市国際マーケツト内ダンスホールの楽士が欠勤いたしましたので、朝鮮人側はある興行師の妨害であるといたしまして、朝鮮人数名がその興行師のところに乱入をして建造物を破壊いたしましたために、同一市内中心地において――その興行師と申しますのは小野組でありますが、小野組の子分約50名と朝鮮人50名くらいが拳銃、猟銃を発射いたしまして乱闘をいたしましたほかに、翌5日双方とも各地から応援を得まして約200名となり、午後7時ごろ朝鮮人数名が小野方において拳銃を発射いたしましたために、市内中心地数箇所において乱闘となりまして、小野組は朝鮮人側ダンスホール等数箇所を襲撃して破壊いたしたのであります。この事件によりまして、朝鮮人側死者1名、負傷者9名、小野組死者1名、負傷者2名、そのほか死者1名、負傷者3名を出したのでありますが、小野組5名、朝鮮人側10名を検挙いたした事件でございます。

それから次の神戸事件と申しますのは、23年の4月14日朝鮮人学校に対する閉鎖命令に応じない朝鮮人等が、代表者40名をもちまして兵庫県知事に陳情のために面会を求めました。翌15日も同様知事側と面談をいたしましたが、その間当局の退去命令に応ぜず、そのために住居侵入現行犯として70名を検挙いたしたのであります。ところで4月24日になりまして、県市警、検察庁の関係者が知事室において協議をしておりましたときに、突如知事室に朝鮮人が乱入をいたしまして、前記関係者をほとんど監禁状態に陥れまして暴行を加え、そして威力をもつてその要求事項を承諾せしめた事件であります。

それからその次の大阪事件と申しまするのは、朝鮮人学校の閉鎖命令に応じない朝鮮人等が、4月23日に約5000名をもつて府庁内になだれ込みまして、知事室の付属品、備品等を破壊し、4月26日には再び大手前公園に隼合いたしましたので、市警当局から解散命令を発しましたところが、これに応ぜんといたしました一部朝鮮人と、あくまで応じまいとする朝鮮人間に乱闘を生じました。このために警察は消防ポンプによる放水及び拳銃の威嚇射撃を行つて鎮圧した事件であります。

次の広島日鋼事件と申しまするのは、広島の日鋼の製作所は従業員2100余名を有しておりまして、賠償工場として終戦後ミシンその他を製作していたのでありますが、経営不振に陥りまして、6月3日に至り730名の大量馘首を通告いたしましたことによりまして、労使の対立は非常に激化をいたしました。団交の決裂後におきましては、労組側は外郭団体の応援を得まして、共産党の指導のもとに非常に尖鋭化をいたしました。会社側の工場閉鎖処分によりまして、14日に至つて外郭団体を加えて約2000名くらいが工場を占拠いたしました。かつ会社幹部を監禁いたしまして第二組合に対する暴行行為に出ましたために、地元の軍政部の要請もありまして、15日の午前6時、広島市警は1500名の警官を招集をいたし、全員を同所から強制退去をさせたのであります。翌16日午後8時ごろ、約7000名の労組側は警備の警察官に対して投石をいたしまして、バリケードを破壊し、塀を乗り越えて警察官と衝突をし、双方に多数の負傷者を出す等の事案を起したのであります。15日の強制処置におきまして28名を検挙いたした事件でございます。

その次の平の騒擾事件は、日共の福島地区委員会から許可申請のありました掲示板の設置に関しまして、その福島市警の許可取消し処分を不服といたしました日共関係者は、実力をもつて所轄平の市警に乱入をいたしまして、署長以下署員を軟禁いたしました。看守巡査の拳銃を奪取、留置人を奪還いたしまして、署の前には赤旗を交叉をし、市内にみずからピケツト・ラインを張りまして通行人を尋問する等、一時無警察の状態になつた事件でありまして、これは有名な事件でありますから、十分御承知のことだと存じます。

次に11・27朝鮮人騒擾事件と申しまするのは、昭和25年の11月24日及び27日の事件でありますが、旧民戦系の朝鮮青年は共産党の指令によりまして、特別工作隊を結成いたしまして、反国連的秘密活動を続けて参つたのでありますが、特に朝鮮人学校父兄会を唯一の保護団体として朝鮮人を組合いたし、闘争を続けて参つたのであります。12月20日長田区役所に対するデモに際しまして、1名検挙いたしましたことによりまして、12月24日、中学生300名を含む600名くらいが、長田区役所、長田警察署の3隊にわかれまして押しかけて参つて、警察を牽制しながら、長田区役所で暴動化をいたしましたために、同所で26名を検挙いたしたのであります。その後これらは長田警察署に大挙して押しかける等の挙に出たのでありますが、12月27日に至りまして、広範囲に姫路、明石等よりも多数動員をし、約8000名ぐらいが西神戸朝鮮人学校において大会を開催いたし、その後長田区役所に向けてデモを開始いたし、警備警察官の解散警告に応ぜず、白はち巻をいたしまして、決死隊と称する凶暴な一隊は、れんが、小石を投げつつ反抗をいたしまして、長田区役所において暴行するの挙に出でましたので、警察官1320名を市警が招集をいたしまして、一斉検挙に着手し、193名を検挙いたしたのであります。この際に警察側が51名、暴徒側が31名負傷をいたしたのでありますが、その事件であります。

次に吹田騒擾事件でございまするが、これは御承知の通りと存じます。これは解放戦争戦取月間闘争の第一波攻撃を6月25日記念日闘争に盛り上げようといたしました日共並びに民戦におきましては、6月24日前夜祭といたしまして、豊中市の待兼山阪大北校のグラウンドにおけるキヤンプ・フアイアの名目のもとに集会を決定いたしました。阪大当局の反対を押し切つて強行開催されるに至つたのであります。当日午後7時、赤旗を押し立てて参集して参りました学生、労働者に続きまして、府下全地域あるいは兵庫県下から朝鮮人学生、自由労務者その他日共傘下の各種団体並びに党員シンパ等が、午後8時半から10時までの間におよそ800名を突破いたしました。グラウンド並びに待兼山高台でたき火をたきまして、革命歌を合唱し、気勢を上げて、興奮のるつぼの中で午後9時ごろ大会が開催されたのであります。ここでは再軍備反対、軍事基地粉砕、アメ公を日本及び朝鮮から追放せよ、吉田内閣打倒等のスローガンに基くアジ演説、あるいはメーデー事件の実態報告がなされました。あらかじめ計画されておりました指導者の巧妙なアジテーシヨンによりまして場内はますます殺気立ち、午前0時集会終了後、指導者の強力な統制のもとに軍事編成を終りまして、火炎びん、ラムネ弾を配給をし、付近高台で竹やりを急造いたしまして、全参集者を2班にわけまして、救護班を配置して、そうして待兼山を出発し、徒歩部隊約300名は四国街道を山越えで吹田に向い、途中豊川村におきまして笹川良一氏宅を襲撃し、さらに山田村において吹田機関区副闘争委員長中野新太郎宅を襲撃いたしました。一方電車部隊約600名は阪急線の石橋駅で駅長を脅迫し、人民電車を出させまして、服部駅で下車をし、吹田市へ入つて、途中駐在所を破砕いたしまして、三島郡の山田村で徒歩部隊と合流をし、警備部隊の阻止を強行突破して吹田操車場に侵入し、駅舎を破壊いたしまして吹田市内に入り、途中駐留軍自動車、警備隊車両に火炎びん、竹やりで暴行をなし、拳銃を奪取し、派出所も同様な手段で破壊し、電話線を切断いたしました。白昼竹やりをかざして市内をデモして省線の吹田駅へなだれ込んだところを、検挙に当つた警備隊と乱闘となり、拳銃、火炎びん、竹やりを持つて対抗したのであります。この間両者に相当の重軽傷を出したのであります。デモ隊は省線に乗りまして大阪駅に逃走をいたしたという事件であります。

次に東京メーデー事件も御承知の通り、昭和27年のメーデーに参加をいたしました諸団体のうち、全学連、北鮮系の朝鮮人団体等約4000名がデモ隊の解散地であります日比谷公園で解散をしないで、皇居前で乱闘をいたしまして、これを防止せんといたしました警官隊に対しまして暴行を加え、米軍自動車10数台を焼却した事件であります。これは御承知の通りの事件であります。非常事件の内容を御説明いたしました。





昭和29年05月21日 衆議院 内閣委員会
[016]
日本社会党(社会民主党) 田中稔男
法務省の政府委員にお尋ねしますが、昨日私の質問しましたことに関連するのですが、きようの読売新聞を見ますと、在日朝鮮統一民主戦線中央議長の李浩然君が北鮮におもむくために神戸で乗船しようとしたのでありますが、これが神戸入国管理事務所で不法出国として拒否された事件、しかもこの李君は出発にあたつて入国管理局の鈴木局長から出入国管理証というような書きものをもらつて、ちやんと話をつけて出発することになつておつたのでありますが、どういう事情か、こういうことになつて非常に騒いでおる。現地の神戸でも騒いでおりますが、東京では外務省あたりへ大勢押しかけて今騒いでおるようであります。

私としましては昨日も申し上げましたように、在日朝鮮人の数はいろいろ計算の仕方はありますが、数10万ということは間違いない。しかもその中に技術や技能を持つた人で北鮮の建設のために帰りたいという人があるのですが、そういう人は帰した方がいいと思う。また実際は日本の食糧不足の折から、ぶらぶらしているということは日本としても困ることで、しかも李君が参りますのはそういう人々が北鮮に帰るためのルートを開くために帰る、どういう事情でこういうことが起つておるのでありますか、政府委員から御説明願いたいと思う。





昭和31年02月24日 衆議院 法務委員会
[023]
政府委員(法務事務官(入国管理局長)) 内田藤雄
これは、現在のところ割合に平静なんでございますが、過去の例で申し上げますと、一昨年の秋に登録の一斉切りかえが行われました当時には、日本全国におきまして、延べにいたしまして5万5232という推定の数字が出ておりますが、かなり執拗な切りかえ反対の陳情が各市町村の窓口において行われたのでございます。

大体、この政治的なと申しておりますのは、その当時略称民戦と称しておりましたが、朝鮮人の非常に左翼的分子の団体でございますけれども、その当時共産党の非常な尖鋭的な闘争方針ともからみまして、これらの民戦の運動方針というものも非常に尖鋭化しておりまして各地におきまして非常に執拗な、ある場合にはすわり込み、またある場合には脅迫に類するような形で市町村の窓口に押しかけて参ったというような例が相当ございます。

その後民戦は変りまして、現在は北朝鮮系の総連合ということになっておりますが、その後少くとも表面的には従来のような戦術とは変っているようでございますので、ただいまのところ、そういう熾烈な反対運動が前回のような形で行われるかどうかということについては、まだそうなるであろうという予定はしておりません。しかし、過去の経験にかんがみまして、こういう人々がいつまたそういった戦術をとり、そういう方向へ反対運動して参るかもしれない、こういうことを予想しておる次第でございます。





昭和57年04月23日 衆議院 法務委員会
[245]
日本共産党 安藤巖
何か都合の悪いようなことは承知いたしておりませんと言うみたいなのですが、先ほど言いました団体の人たちが、この問題について東村山署へ、子供を強引にパトカーに乗せて本署へ連れていったのはけしからぬ、どうなっておるのだということで抗議に行ったのですね。

そうしましたら、これはそのときの写真なのですが、警官の数がたくさんあります。これもそう、これもそうですが、こういうふうにたくさんの警官が、このビラには数10名とあるのですが、この写真で見ると約20名の警官がその東村山署の玄関の前に並んで、抗議に行った人たちに対して中へ入れまいとするというようなことまでやっておるのですが、これはそういうような抗議を申し込まれると都合が悪い、そういう人たちに警察署の中へ入ってこられたのではかなわぬというような何か特別な事情でもあって、こういう異常な警備態勢をとったのですか。

[246]
説明員(警察庁警備局外事課長) 吉野準
3月23日に約20名の朝鮮総連の関係の方が署へ来られたのでありますが、何分大ぜいで来られてわいわい騒がれるものでありますから話し合いにならないということで、代表をしぼっていただきたいと言ったところが、2名しぼってもらいましたので、それと警備課長が応接いたしております。そういうことでございます。

[247]
日本共産党 安藤巖
いまの答弁では、抗議、そしてどういうようなことでこうなったのかという説明を求めに来たのに対して、なぜこれだけ大ぜいの警官が出てこういう警備態勢をとらなければならなかったのかと私がお尋ねしたことに対する答弁にはなっておりませんよ。

[248]
説明員(警察庁警備局外事課長) 吉野準
大ぜいで玄関前に押しかけて、受付前に入り込み、受付係に対していろいろと申し出をしておるということでございますので、これは当然執務の妨害になりますので出ていただいた、こういうことでございます。

[249]
日本共産党 安藤巖
いまあなたが、執務の妨害になるから出てもらったというのですが、そうしますと、警察署の玄関から入って執務しているところへ入り込んできて、机などにたとえば腰かけるなどして執務の妨害になるようなことがあったとおっしゃるのですか。

[250]
説明員(警察庁警備局外事課長) 吉野準
このまま放置しておきますと、これは当然執務の妨害になるわけでございます。これはいろいろ過去のこの種の例からいって明らかなので、それで警告をしておるわけでございます。警告をした後で出ていただいたということでございます。

[251]
日本共産党 安藤巖
そういうような警察の対応の仕方が、やはり基本的に問題じゃないかと思うのですよ。だから、これからもお尋ねするわけなんですが、その少年を母親の同意も得ないで勝手にパトカーを呼んで本署へ連れていったということに対して、なぜそういうことをしたのだという釈明を求め、そして抗議をしに来た。だから、それはそれなりにちゃんと聞いて、説明すべきことを説明するというようなことをおやりになればいいのですが、警官隊がずらっと20名も警察の前に並んで、そしていかにも暴徒の集団が押しかけたかのごとき対応をとるというのは、やはりこれは異常な警備で、在日朝鮮人の人たち、あるいはその人たちの人権を守るためにいろいろ活動しておられる人たち、そしてまさにそのことのために来た人たちを、あたかも犯罪人の集団が押しかけたかのごとく扱う、こういうようなところが一番基本的な問題じゃないかと思うのですが、これはそういうことをしなくてもよかったのではないかというようなことは、毛頭考えなかったのでしょうか。

[252]
説明員(警察庁警備局外事課長) 吉野準
過去この種の事案等にかんがみまして、大ぜいの方と会って話すということは不可能なわけでございます。

やはりこちらからも説明したいことがある、向こうも言いたいこともあるでしょう。その場合は人数をしぼって穏やかに話し合うのが最善でございまして、この場合も、20名ということではとてもその話し合いにならないということで、2名にしぼっていただいて警備課長が応対をしたということでございまして、私は適応妥当な措置であったというふうに考えております。