朝鮮戦争のプロパガンダ

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昭和26年10月19日 衆議院 平和条約及び日米安全保障条約特別委員会
[166]
日本共産党 米原昶
そこで私は、今まで総理が否定し続けて来られた問題について1点お聞きしたいのであります。それは朝鮮の事件に対しては、日本からたとえば警察予備隊なり、日本人を兵隊として送り出したことはない。また今後も警察予備隊というようなものを出すことはないということを、今まで外務委員会でも、政府は、ことに吉田総理は、はっきりと答えられて来たのでありますが、最近の平壌発の電報によりますと、日本人が1人朝鮮の戦線において捕虜になったことが発表されておる。今までも朝鮮において日本人が出ておるというようなことは、新聞で伝えられたことはあります。しかしそれは二世であるとか、何かの間違いだというふうに弁解されておったのであります。ところが、今度発表されておるのを見ますと、これははっきり日本人だということを当人が語っておって、そうしてしかも名前から住所から生年月日から、全部はっきりしておるのであります。こういう事態がはっきり報道されておるので、私はこれを政府に聞きたいのであります。それはこういう事件であります。

この9月4日に朝鮮の西部戦線で捕虜になった安井タツフミという一等兵がある。これが朝鮮戦線に日本から強制的にかり出されたいきさつを次のように語っておるという電報であります。それによりますと、私の本籍は大阪市生野区大友町78番地であり、現住所は大阪府の布施市長堂1丁目3番地である。母親はケイ子というのでありまして、10人家族で住んでおる。私は大阪市でミシン修理工をしていたが、朝鮮戦争が勃発して間もなく、われわれ日本人青年たちは、いわゆる韓国義勇軍の名目で朝鮮戦線に動員された。そうして私は第2回韓国義勇軍として朝鮮戦線にかり出された。われわれの部隊は2000余名によって編成されておるが、そのほとんどが20才以上30才以下である。昨年9月25日米軍第7師団で軍服を渡され、埼玉県朝霞に3日間とまり、米軍からテントの張り方を習い、再び横浜に行ってから船に乗り、米軍監視のもとに仁川に引きずられて来た。仁川に到着したわれわれは、それぞれ分散されて国連軍部隊に配置された。私が所属していた20名の隊列は米軍第330部隊にとどまっていたが、ここで約1箇月たったころ、大邱から大量の朝鮮人部隊が来るようになった。これらの部隊は56部隊、85部隊という名前を持った部隊であるが、実は西日本において訓練を終えて来たものである。その後再び移動して京城に約1箇月おり、さらにここから移動して1週間訓練を受けたというようないきさつがずっと書いてあります。ここで特に朝鮮語を教えられて、前線で捕虜になった場合に、日本人であることを頑強に否定して、朝鮮人であることを最後まで固持せよという命令が出て、本籍から父親、母親の名前まで朝鮮名前を教えられたということを言っておる。その後数回にわたって移動した結果、最後に9月4日前線に動員されて、高地争奪戦で中共軍の捕虜になった。こういうことをしゃべっておるという非常に詳しい電報であります。これはもう名前から住所の番地まではっきり出ておるのでありまして、非常に重大なものだと思う。こういうことを吉田総理は実際においてやっておられるのかどうか、この点について聞きたい。

[167]
内閣総理大臣・外務大臣 吉田茂
政府委員をしてかわって答弁せしめます。

[168]
政府委員(外務政務次官) 草葉隆圓
さような事実はございません。従って何かの宣伝ではないかと思います。