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平成10年09月03日 参議院 外交・防衛委員会
[061]
社会民主党 田英夫
一つ、全く関係のないようなことですが、四・三済州島事件、済州島はもちろん今は韓国ですけれども、というのはどういう事件か。おられる中で御存じの方があったら、多分御存じないだろうと思うんです。
それは、1948年、昭和23年4月3日に済州島で市民というか、李承晩政権ができたばかりで、その5月に初めての選挙をやる。つまり、南北分断が決定的になるというその時期に済州島の人たちが、今は韓国ですが、当時はまだ分断がはっきりはしていない、その人たちが分断に反対して蜂起したわけです。これに対して、李承晩政権の警察と何とアメリカ軍が、占領していましたから、アメリカ軍が攻撃をして3万人が死んだと言われているんです。ことしは50年になるものですから、この8月21日から4日間、済州島でシンポジウムがあって、私にどうしても来いと言うので行ってきました。
私どももそんなに知りませんでしたが、済州はチェジュなんですが、四・三チェジュというと、韓国の人は金大中政権になるまでは全く口にすることもできなかった。これは要するに、統一じゃなくて分断反対だったんですね。そのことは北の人ももちろん知っています。そういうような歴史も含めて、日本の我々はもう一回勉強し直す必要があるんじゃないか、考え直す必要があるんじゃないか。
迂遠のようだけれども、朝鮮半島と日本のかかわりの一番根底のところ、彼らがと言ってはあれですが、朝鮮民族が気にしているというか、もっと言えば怒っているところを考える必要があるんじゃないかということを、これは御答弁は要りません。偉そうなことを申し上げましたけれども、そういうことがあるということを申し上げておきたいと思います。
ありがとうございました。
平成11年06月08日 参議院 外交・防衛委員会
[093]
社会民主党 田英夫
またもう一つ、余り知られていないことで、これは御質問しませんけれども、1948年、昭和23年4月の済州島事件、韓国ではチェジュ島事件と言っておりますが、そういう事件があって2万人を超す人が殺された。しかも、驚くべきことにこれはアメリカ軍が中心になって、韓国の警察も加わってそういう事件が起きてしまった。
それは李承晩政権ができて、朝鮮半島が南北に分断するということが明白になった段階でそれに反対する人たちが蜂起した。当時のアメリカ占領軍としては、それは好ましくないということでそういう弾圧になったという。私は、昨年現地へ行って50周年の会合に出てそのことを明白に知りました。韓国でもこのことは長いことタブーになっていた。つまり、アメリカ軍が関与しているということだと思います。
そういうことがあって、そのときに、近いですから、かなりの数の人が昭和23年という段階で、日本もまだ入国の手続等のことについて完備していなかったこともあり、結果的には密入国だろうと言われているんですが、かなりの数の人が日本に逃げてきたということがあります。
したがって、在日の中に、数はそんなに多くはないでしょうけれども、比率からいえば少ないでしょうけれども、そういう人もまじっているかもしれないということも指摘しておきたいんです。
そこで、法務省にお聞きしたいのは、数が全体として減っているというさっきの局長のお言葉がありましたが、それは何が原因か。彼らの仲間では帰化だと言っているんです。現に帰化はふえているでしょう。それは間違いありませんか。
[094]
政府委員(法務省民事局長) 細川清
帰化者の数についてお尋ねでございますが、昭和27年4月28日に平和条約が発効した後から昨年末までに帰化した韓国・朝鮮人の方の数は22万3861人でございまして、この間に帰化した人の総数が30万1495人ですから、帰化者総数の3分の2が朝鮮半島出身の方々であるということでございます。
平成11年12月14日 参議院 外交・防衛委員会
[101]
社会民主党 田英夫
これは、日本ではほとんど知っている人はいない。私も実はごく最近まで知らなかったんですけれども、第二次世界大戦が終わった直後のまだ朝鮮半島が南北に分断をする前、李承晩政権が韓国で誕生する以前の1948年4月3日に、自分たちの祖国が分断をされるという動きが出てきていることに抗議をして、済州島の島民が武装蜂起して反対闘争に立ち上がった。これに対して、占領していたアメリカ軍も関与したと思われるんですが、実際に手を下したかどうかはわかりませんが、朝鮮側の官憲がこの民衆を殺りくして、名前がわかっているだけで1万5000人、不明者を含めると恐らく3万人の島民が殺されたと言われている事件であります。
私がこれを詳細に知りましたのは、実は昨年の8月、その済州島で、平和と人権に関するシンポジウムというのを韓国の人たちが主催して、NGOが主催してやりまして、そこにラモス・ホルタという東ティモールの例のノーベル平和賞をもらった人と、なぜか私が呼ばれて基調演説のようなことをやらされたわけですが、そのシンポジウムの主な目的はこの済州島事件の解明ということにありました。
韓国でも、実は米軍が関与していたということもあってこの問題については長らくタブーになって触れることができなかった。それが、金大中政権ができたからとは言いませんけれども、そのシンポジウムには韓国の金大中さんの与党の国民会議の議員も数人来ておりましたが、そういう中でかなり詳細に現地の島民の人たちの証言も出てまいりました。明らかになってきたところであります。
きょう、私があえてこれを取り上げようとしているのは、今、韓国の議会でこの問題についての法案が審議をされております。したがって、このことはこれから申し上げますけれども、日本の政府に対しても相当大きな影響が出てくると思われますので、あらかじめそれを申し上げておきたいわけです。
当時の状況は、私ども敗戦の中で混乱状態にありましたから、私も既に社会に出て新聞記者をやっていましたが、全くこの済州島事件は知りませんでした。当時、日本が敗戦ということになりまして日本の朝鮮半島植民地支配が終わった直後の段階では、朝鮮半島全土で朝鮮建国準備委員会というのができて、これは民間から自然発生的にできたようですが、略称を建準と言っているようです。こういう組織ができて各地にその支部ができた。済州島にもそれができた。この人たちが中心になって蜂起をしたようでありますが、こういう背景の中で、同時に一方で李承晩政権が生まれようとしていた。ということは、李承晩政権が生まれれば朝鮮半島分断が現実化してしまう、このことにこの建準、建国準備委員会の人たちは反対をしたわけですね。
したがって、いきなり戦争が終わった直後にもう南北朝鮮が分断したんじゃなくて、朝鮮の人たち自身は自分たちの手で一つの国をつくろうとした。にもかかわらず、これに対して、占領していたアメリカ軍は、この建国準備委員会は左翼勢力であるという判断をしてこれを弾圧し始めたという経緯があります。そういうことの中で結局李承晩政権ができて、そして弾圧でさっき申し上げたような事態につながっていったようであります。
現在、韓国議会で審議をされております法律案は、済州島四・三事件真相究明及び犠牲者名誉回復に関する特別法案という名前の法案で、与野党が話し合った結果一本化して、与野党合意の上で一本化した法案になって現在審議が行われている、こういうことであります。
第1は、済州島事件というのは、四・三事件というのはどういうものかという規定をしている。それは、事件の起こる前の年の1947年の3月1日にいわゆる三・一事件、日本に抗議したあの事件の記念日の集会で青年が殺されたということから始まって、そしてずっと行って1954年、朝鮮戦争が終わった後の1954年の9月21日に、完全にその蜂起した勢力は平定されてしまうわけですが、それまでの間全部を済州島事件というというふうに規定をされています。
そして、これに対して、今までタブーで真相がわからなかったから、日本でいえば総理大臣、国務総理を委員長とする済州島四・三事件真相究明及び犠牲者名誉回復委員会というものを設置する。それから、その実際の活動をするために済州島知事を委員長とする実務委員会をその下に設置するというようなことが内容になっておりまして、現実には、結果をまとめた白書を出すとか、あるいは慰霊碑をつくり慰霊祭をやる、それから資料館をつくるというようなことがこの法案の中に入っているそうであります。
きのう、韓国側の人に電話で聞きましたら、もちろん与野党一致して出しているものだから、これは通るだろう、間もなく年内に成立する。となると、時間がありませんから申し上げますが、本法施行から30日以内に韓国の在外公館は犠牲者及びその遺族に申告するように手続をとるべきである、とらなければならないという規定があるということです。
そうすると、日本に実は在日韓国人・朝鮮人、特に韓国の人の中に済州島出身者が非常に多い、これはそのときに逃れてきた人たちだと言われています。となると、その中から申請する人が出てくる、申告する人が出てくるだろう。ということになると、あの当時は、実は密入国者の扱いをしていた。実際はこれは政治亡命者として、あるいは政治難民として遇さなくちゃいけなかったんじゃないかということで、日本政府の対応を迫られることになります。
きょう、突然こういうことを申し上げて、お答えにくいと思いますが、お耳に入れておきますが、外務大臣のお考えを最後に伺って、終わります。
[102]
外務大臣 河野洋平
私も最近、済州島へ参りまして、済州島の方から日本にはこの島から行かれた人が大変多いんだという話を聞いたばかりでございます。
いろいろな経緯で日本へ来られた方がおられるので一概に言えないことだと思いますが、今、田議員から済州島事件についてお話を伺いまして、もうすぐ50年になるわけですが、50年前のこうした事件についても、その歴史的評価をきちんとしようという韓国、そしてさらにアメリカも加わっての作業がどういうふうに行われるか、それもよく見させていただきたいと思います。
日本におられる方々を政治難民として扱うべきだという今の御指摘でございますが、これはどういうふうに対応ができるか、突然のお尋ねで、私、ここで御返事を申し上げる材料を持っておりません。今の御指摘を踏まえて、ちょっと研究させていただきたいと思います。
平成15年06月03日 参議院 武力攻撃事態への対処に関する特別委員会
[117]
社会民主党 田英夫
実は、私は関東大震災の年に生まれたんですが、そのときに大勢の朝鮮の人が、これはもうデマがもとですけれども、殺されている。全くばかげた話ですが、私は、もちろん生まれた年ですから、小学生ぐらいのときに母親から聞かされて驚きましたけれども、もっと朝鮮民族に対する本当の理解をするという意味で、今、日本に大勢の朝鮮民族、いわゆる在日の方々がおられますが、在日の総数というのは、法務省、何人とつかんでおられますか。
[118]
政府参考人(法務省入国管理局長) 増田暢也
平成14年12月末現在の統計でございますが、韓国、朝鮮人で外国人登録をされている数は、62万5422人でございます。
[119]
社会民主党 田英夫
62万もの、いかに隣の国とはいえ、その南北合わせてそれだけの方がおられる。
関東大震災のとき、さっきそういう話をしましたが、あのころは一体、概算でいいんですが、どのぐらいでしょうか。
[120]
政府参考人(法務省入国管理局長) 増田暢也
今の外国人登録制度が昭和22年にできたものでございますから、大正時代のいわゆる在日に当たる方の数は把握しておりません。
[121]
社会民主党 田英夫
これは私の聞いた概算ですが、2、3万だろうというんですよ、当時は。それが今62万まで激増しているのは一体いつかというと、それも調べてみたら、戦争中なんですね。つまり、戦争中の昭和17年、東条内閣が閣議決定したいわゆる強制連行、これによって数10万の朝鮮の人が日本に来て、そのまま居着いてしまったというか、これが今の62万の在日の皆さんのルーツであります。元をただせば強制連行ですよ。
そういう意味も含めて、本当に我々はもっと朝鮮の皆さんに対する意識を正さなければならないと思っていますが、その在日の中で、皆さんは恐らく朝鮮総連系とそれから民団と言われる韓国系という頭で見ておられるかもしれませんが、それは全く違います。在日62万の中で一番数が多いのは、実は日本の政党支持率と同じようなことでありまして、総連も民団も支持しない、その中間です。この人たちの間で、何年か前に在日同胞の生活を考える会という一つの市民組織のような形のものができておりますが、今度それが全国的に組織を強化して一つの新しい組織を作るということが表面化しつつあります。もう今年の末か来年には発足するようでありますけれども。
我々は本当に隣人どころか一緒に住んでいる人たちのことすら余り正しく理解していないのではないかと思いますが、もう一つ、我々が理解しておかなくちゃいけないのは、昭和23年、1948年に済州島で起きました済州島事件。1948年の4月3日ですけれども、南北分断に反対をして市民が蜂起をして、結局、2万とも3万とも言われて、実際正確な数が分からないんですが、人たちが死にました。米軍が関与しているということがあって、長いことこれはタブーにされまして、表面で議論することすらできなかった。数年前に金大中大統領が誕生したときからオープンになっておりますけれども、これは南北分断に反対をしたと。
南北分断されたということは、実は日本に責任があると私は思っています。つまり、太平洋戦争で日本が負けた、終わったときに朝鮮半島に朝鮮という独立した国家があれば、いかにアメリカとソ連も38度線を引いて南北に分断をするという、そういうことはできなかったと思いますよ。それを、日本の植民地だったから、日本が植民地にしていたから、負けた日本の植民地だからアメリカとソ連はそれを分断する、こういうことになって民族の悲劇が生まれたわけですが、そのことに、まず李承晩政権ができようとしたことに反対をし、そしてソ連が入ってきた北にやはり社会主義の国ができてしまったという、こういうことを正しく考える、歴史を考える必要があると思います。
平成16年06月11日 参議院 国土交通委員会
[050]
社会民主党 田英夫
もう局長はさっき答弁されましたので、お答えいただこうと思ったことは省略して、時間がありませんので一方的に私の方から意見を申し上げて済みませんけれども、もう一つ具体的なあれで言いたいのは、皆さん、済州島事件というのを御存じでしょうか。
1948年4月3日に、あの日本に一番近い済州島で住民の暴動が起きました。
ちょうどそのときに、南では李承晩政権ができようとしている、北では金日成が社会主義政権を作ろうとした。つまり朝鮮分断がそこで起ころうとしたときに、その分断に反対をして済州島の住民が蜂起したんですね。ところが、このときに李承晩政権はまだ成立してはおりませんでしたから、韓国軍というものはない。結局、これを鎮圧したのはアメリカ軍であったようであります。ようでありますというのは、この辺はごく最近まで韓国側でも公に話すことはタブーでありました。したがって、日本でもこのことは余り知られておりませんが、2万、3万という数の民衆が死んだと言われております。
これは、その主張はただ一つ、分断反対ということでありました。この分断という悲劇は今、北朝鮮の問題の直接の原因でもあるわけですが、日本が降伏したときに、南からアメリカが入ってくる、北からソ連が怒濤のごとく、遅れて参戦したばかりのソ連が入ってきて、朝鮮半島を、ちょうど半分のところでぶつかっていたので、結局、米ソが中を取って38度線を引いて朝鮮半島が分断されてしまった。もし、あのときに日本が朝鮮を植民地支配していなかったならばどうだったかと私は考えます。あそこに独立した一つの国家があったならば、アメリカ、ソ連もそれを分断するということはできなかったでしょう。
そういう意味から考えると、日本の植民地支配が今日の朝鮮半島分断の原因を作っていたとも言えると思う。日本の責任は決して無関係ではないと。ということも含めて、歴史の事実として、私ども日本人の立場からこのことを、済州島事件という悲劇を具体的な問題として、よく朝鮮民族の気持ちを理解してあげるというか、そういうことも忘れないでいなければいけないと。